<コラム>生まれたままの心と善悪の判断基準

海野恵一    2019年5月1日(水) 18時50分

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あなたが今まで悪だと思っていたことを相手の人がそれは善だと言ってきたときにあなたはどのように判断し、行動したらいいのでしょうか。

前回は善悪の判断はあなたが決めるのではありませんということをお話しました。決めるのは相手の人であり、あなたではないと言いました。それではあなたが今まで悪だと思っていたことを相手の人がそれは善だと言ってきたときにあなたはどのように判断し、行動したらいいのでしょうか。

今回はそうした善悪の判断の基準となるものが何なのかをお話したいと思います。善悪の判断基準は儒学では普遍的な道徳的価値観として三徳、五常、五倫があります。こうした徳育教育の基盤があって、生まれたままの心がこうした基盤の上にあればあなたの心は「善の心」になります。この「善の心」とは是非・善悪を判別できる先天的な知力のことです。明の時代の儒学者である王陽明はこのことを「良知」と言いました。この「良知」については1月号で解説しました。

さらに、善が何であるかの判断をするのは宗教、宗派によってその定義が異なっているからだけではなく、また、時代によっても、国によっても、性別によっても、善悪が何であるかはその判断が異なってきます。そして、その善悪の是非は自らの判断に基づいて決めるのではなく相手の判断に基づいて決めるのですが、それをあなたが受け入れるかどうかは上述の道徳的価値観の基準に照らした上で決めるのです。

ところで善悪の物差しは人によって違います。絶対的な善というものはありません。それが外国人とか女性関係になってくるともっとその善悪の判断が異なってきます。この善悪の判断が何であるかは、個人個人によって異なっています。そのため、その判断のすり合わせがその都度必要になってきます。相手が一人の場合の時もあり、集団の場合の時もあります。相手が一人の場合にはその善悪の判断はその相手によって、その善の範囲が大きく異なってきます。その善がどこまで相手に善として受け入れてもらえるかは相手の善に対する考えとかその時の心の状態次第で決まってくるのです。ですから相手に話をしてみなければわからないのです。

「仁者」は自分の欲望を抑えるだけでなく、相手の欲望に自分の心の状態を合わせることができる人のことを言うのです。結果として自分の欲望が前面には出てきません。ですから相手が善だと言えば、自分が悪だと思っていたとしても、自分の道徳的価値観に照らして受け入れることができれば受け入れればいいのです。そうしたお互いの価値観とか考え方の違いを日頃からどう対処するのかを意識することによって、相手との考えが違った場合でも大きな問題でない限りあなたが相手の考えを受け入れればいいのです。だから仁とは耐えることと同じです。反論したり意見を言ったりしたい気持ちになることもあるでしょうが、一晩置くと自然と反論したい気持ちが消えていきます。その結果、あなたの視野とか知見が広がっていきます。

孟子がこうした善悪の判断は生まれながらに誰もが持っていると言いました。小さな子供が井戸に落ちそうになったら、誰もが助けるだろうと言ったのです。道徳的価値観をどの人間も生来、持っていると言いましたが、果たしてそうでしょうか。やはり、三徳、五倫、五常は学ばないと正しい行いはできないと思います。この内容については後日それぞれについて詳述したいと思います。

■筆者プロフィール:海野恵一

1948年生まれ。東京大学経済学部卒業後、アーサー・アンダーセン(現・アクセンチュア)入社。以来30年にわたり、ITシステム導入や海外展開による組織変革の手法について日本企業にコンサルティングを行う。アクセンチュアの代表取締役を経て、2004年、スウィングバイ株式会社を設立し代表取締役に就任。2004年に森田明彦元毎日新聞論説委員長、佐藤元中国大使、宮崎勇元経済企画庁長官と一緒に「天津日中大学院」の理事に就任。この大学院は人材育成を通じて日中の相互理解を深めることを目的に、日中が初めて共同で設立した大学院である。2007年、大連市星海友誼賞受賞。現在はグローバルリーダー育成のために、海野塾を主宰し、英語で、世界の政治、経済、外交、軍事を教えている。海外事業展開支援も行っている。

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