<コラム>日本はかつて世界の航空界をリードしていた

配信日時:2018年12月25日(火) 15時10分
日本はかつて世界の航空界をリードしていた
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山東省青島市北部にある四流中路×永平路の東に西大村河が流れているが、その河を越えると滄口飛行場がある。写真は筆者提供。
山東省青島市北部にある四流中路×永平路の東に西大村河が流れているが、その河を越えると滄口飛行場がある。現在は軍用飛行場であるが、青島流亭国際空港が出来るまでの1933~1958年、民間飛行場として使用された。1932年、現在の李滄区四流中路1号に中国航空公司が創設され、1933年から上海-南京-海州(連雲港)-青島(滄口)-天津-北平(北京)航路が開通(1427キロメートル)、C-46、C-47機材を用い週3便で運行した。

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1939年、日本軍占領後は大日本航空青島出張所となり、東京(立川)-大阪(木津川)-福岡(雁の巣)-蔚山-京城(ソウル・汝矣島)-平城-大連(周水子)の航路に加え、京城(汝矣島)-青島(滄口)-北平(北京)の新航路を運行した。当時の運行記録を見ると、東京から大連まで2日間(途中、給油中継しながら)を要していた事から、東京→北京もほぼ同じ時間を要していたと思われる。当時の東京(立川)→大阪(木津川)間は2時間半を要しており、現在の新幹線と同程度の時間を要していた。木津川飛行場(写真1)は木津川が大阪湾に出る河口北部にあり、現在は中山製鋼の工場になっている。木津川尻と呼ばれた。

大日本航空(株)は1938年11月28日に作られた国策会社(前身が日本航空輸送)で、機材としては中島AT-2/三菱MC-20(写真2)の国産機に加え、ライセンス生産していた米ダグラス製DC-2/DC-3を使用していた。当時の航空産業は欧米が先行していたが、アジアでは日本の航空業界が同程度の航空技術を持っていた。その後のゼロ式艦上戦闘機(航続距離2200キロメートル)を筆頭に、世界の航空界をリードしていたが、戦後11年間は連合国最高司令官総司令部(GHQ)によりあらゆる航空技術開発を禁止されたがため、その技術的地位を欧米に奪われた。

大日本航空は、1940年に福岡-沖縄-台北-広東-ハノイ-サイゴン-バンコクの東南アジア便も運行し、オランダKLM航空は欧州(アムステルダム)から植民地のインドネシアまで世界最長の航空路線を持っていた。給油中継しながら10日間、飛行時間は81時間と記録されている。あわせて、バンコクまで運行していたので、船便でなくても飛行機で欧州まで行く事は可能であった。当時の日本郵船の横浜→欧州海路便は50日を要していた。また当時は客室乗務員を「エアーガール」と呼んでいた(写真3)。

■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、日中友好にも貢献してきた。
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