篠原涼子と西島秀俊が生と死の境界に迫る 映画「人魚の眠る家」

人民網日本語版    2018年11月1日(木) 16時50分

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「死」とは一体何なのだろう?命は一瞬で終わるのだろうか?それとも、時間をかけて死は訪れるのだろうか?一生死のその束縛から逃れられない人もいるのだろうか?

「死」とは一体何なのだろう?命は一瞬で終わるのだろうか?それとも、時間をかけて死は訪れるのだろうか?一生死のその束縛から逃れられない人もいるのだろうか?映画「人魚の眠る家」は、「死」に関する物語であると同時に、「命」に関する物語でもある。東京国際映画祭の「GALAスクリーニング作品」である「人魚の眠る家」のワールドプレミアが29日、東京六本木で開催され、堤幸彦監督のほか、主演の篠原涼子、西島秀俊、坂口健太郎らがレッドカーペットイベントに登場した。

東野圭吾の作家デビュー30周年を記念して書かれた「人魚の眠る家」を映画化した同作品は、11月6日に日本で公開される。東野圭吾は、「この作品の映画化はとても難しかったと思う。映画では小説に僕が込めたものをうまく表現されていて、監督や役者は本当にプロフェッショナルだ」と、映画化した堤監督を絶賛している。

「人魚の眠る家」と「ナミヤ雑貨店の奇蹟」は、東野圭吾が手掛けた「双子作」のようなものだ。後者は、ポジティブに希望を描いているのに対して、前者は絶望の中で生と死に迫っている。「人魚の眠る家」は推理小説というよりは、生と死の境界に迫る物語といったほうがいいだろう。同作品では、ある事故が一人の人生を大きく変える。ヒロインの薫子(篠原涼子)の長女・瑞穂がプールで溺れ、医師から脳死宣告を受ける。IT系機器メーカー・ハリマテクスの社長である瑞穗の父親・和昌(西島秀俊)は、部下から、機械で横隔膜を動かして呼吸させる 横隔膜ペースメーカーがあることを教えてもらい、それを使うことにする。それを導入された瑞穗は見た目は元気な子供と何も変わらず、薫子が機器を操作すると、体を動かして挨拶をしたり、微笑んだりしているように見せることができる。しかし、すべてはうまくいっているようにも見えたが、薫子は周りの人から疑いの目も向けられるようになり、心で葛藤が始まる。脳死と判定された人を、そのような方法で生かし続ける必要があるのだろうか?それとも、早く安らかに眠らせて、臓器提供をしたほうがいいのだろうか?

「人魚の眠る家」で、東野圭吾は人生や人間性について深く熟考している。奇異な犯罪や残忍な殺人事件が起きるわけではないものの、この小説の内容は非常に残酷で、人を絶望させる状況を描いている。東野圭吾デビュー30周年記念作品である同作品は、「死」に新たな定義を加え、社会問題に鋭くスポットを当てている。感情と倫理・モラルの間に矛盾が生じた場合、どのような選択をしなければならないのだろう?法律が定める境界と社会の判断に差がある場合、どんな選択をしなければならないのだろう?

人間とは感性の生き物であるのかもしれない。薫子は自分の決めたことを貫く。理性は、「正しい選択とは何か」を人に告げるが、感情は、人にそれとは全く反対の決定をさせ、毎日クモの巣に引っかかったような絶望に襲われるとしても、その決定を貫かせることがある。社会の発展や科学の進歩により、人々の「常識」に対する認識も変化しており、最終的な判断を下すのはいつも自分だ。しかし、どのような状況でも、生と死の隔たりを超えることができるのは愛だけで、理性的な答えも、最終的には人の感情には勝てない。

同小説が刊行された時、東野圭吾は、「こんなことを書くべきか迷った。脳死患者を死んだと見なすかについては、これまでずっと議論されてきた。物語の中の瑞穂は眠った人魚のようで、目を覚ますことは永遠にない。そして、植物人間とは違い、自己意識もとっくになくなっている」と語った。東野圭吾は、これまでにない忍耐力を発揮して、人の心の世界をじっくりと描き、人間性について深く分析している。ある読者は、「最後までずっと涙を流しながら読んでいた。それでも、最後には生きる勇気が得られた。一筋の光が、寒い部屋に差し込み、何かが少しずつ溶けたような気分だ」と感想を綴っている。(編集KN)

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