<コラム>日本のカネボウの原点は、中国の青島にあった

配信日時:2018年10月8日(月) 22時10分
日本のカネボウの原点は、中国の青島にあった
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国綿第六工廠(山東省青島市李滄区四流中路46号)は、鐘淵紗廠として1921年3月、滄口鎮に25万坪を有し、1923年4月に生産を開始した。写真は筆者提供。
国綿第六工廠(山東省青島市李滄区四流中路46号)は、鐘淵紗廠として1921年3月、滄口鎮に25万坪を有し、1923年4月に生産を開始した。日本人143人・中国人3400人が働き、1931年には鐘紡公大第五工廠となった。鐘紡は当時日本では最大級の企業であり、上海・青島・天津に7カ所の工場を有していた。1937年12月、日中戦争時に工場が焼失したが、1938年1月に増田幸雄が工場長となり昔のように復旧した。1945年8月には、中国紡績建設公司青島分公司に接収され、1949年10月に解放後は青島第六綿紡績廠となった。

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現在は、創意産業園区(M6園区)となって内部が公開されており、多くの事務所・工場建屋跡など当時の紡績工場跡を見る事が可能である。(写真1)は四流中路から東に入った正門であるが、当時と同じ門柱である。その他当時と現在を比較掲載したのが(写真2)である。鐘淵紗廠は膠州線と滄口大馬路(四流中路)の間に、西に工場(写真3)、中央部が日本人職員住宅、東に中国人住宅を配置している。この住宅地の特徴は、冨井正憲の「東アジアにおける紡績工場」によると、日本人住宅側に遊園地・テニスコート・倶楽部・病院・浴場・売店・図書館・理髪所などがあり、付近には日本神社もあったという。中国人住宅側には、茶館・浴場・厠ほか、食堂・女子宿舎・公園に加え野球場もあった。

日本人住宅は、一戸建てや二階建て長屋造りで、テラスやバルコニーも併設、内部構造は日本式であることが確認できる。56棟219戸あったようだ。中国人住宅は、今は破壊されて確認ができないが、分棟平屋型88棟732戸と記録されている。高級日本人管理職向け一戸建住宅もまだ残っていたが、当時の従業員への福利厚生が十分になされていたということが良く理解できる施設である(写真4)。

現在、工場の西隣に青島北駅があり高速鉄道の車両が停車しているが、当時は北に荷役搬出のための滄口駅があり、現在も貨物駅として営業している。ホームがあることから一般乗客用の駅でもあったことも理解できる。

戦前、鐘紡(株)は日本最大規模の企業であった。世界に6万人の従業員、工場総面積で200万坪であったという。1903年には日本初となる社内報「鐘紡の汽笛」を発刊している。現在は「カネボウ」と社名を変更しているが、その歴史は日本工業発展とともにあった。

■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、日中友好にも貢献してきた。
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