<コラム>トヨタ自動車の原点になった中国の工場

工藤 和直    2018年10月1日(月) 9時0分

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山東省青島市の国綿第四工廠は1934年5月に創建された豊田紡織青島工場(四流南路水清溝)跡で、この場所にいると、今のトヨタ自動車の原点を見る事ができる。写真は筆者提供。

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山東省青島市の国綿第四工廠は1934年5月に創建された豊田紡織青島工場(四流南路水清溝)跡で、敷地面積35万平米に日本人73人・中国人2000人がいたと記録されている(写真1)。現在は鴻泰綿園(開平路×四流南路)の高層住宅となり当時の工場跡は確認できないが、開平路53号に当時の従業員社宅跡を確認できる。この場所にいると、今のトヨタ自動車の原点を見る事ができる(写真2)。

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1921年(大正10年)、中国上海に(株)豊田紡織廠(社長:豊田佐吉氏)を設立、佐吉氏の希望でもあった機械メーカーから紡績メーカーへの舵取りを行った。豊田紡織の危機は1925年(大正14年)5月の五卅(Wu Sa)事件で、社内で日本人社員が拳銃で射殺される事件があった。豊田紡織廠における製造や経営は西川秋次氏に委ねられ、豊田喜一郎氏(佐吉氏の長男)が自動車事業をスタートさせた際、資金面から支援するとともに、中国での事業展開に中枢的な役割を果たした。1940年に北支自動車工業を設立、1942年に華中豊田自動車工業設立に協力した。西川氏は米国で米国式合理的生産管理を勉強したが、「人間性も重視すべき」と考え、それが今のトヨタ自動車の原点につながっている。約100年前の事であった。

上海市蘇州川沿いにある豊田紡織工場跡は現在一般に非公開であるが、上海豊田紡織廠記念館としてトヨタグループの歴史を伝えている。

国綿第五工廠(四方区四流南路80号)は、1934年3月に創建された上海福昌公司をもとに、上海紡績(株)青島工場として操業を開始。現在は青島紡績博物館(青島紡績都市工業園)として当時の様子を垣間見ることが出来る。博物館は当時の工場をそのまま再利用し、豊田自動織機(TOYODA’S LOOM WORKS LTD OSAKA)製造の大型プレスを始め、多くの紡織機械を見る事が出来る。また、三角屋根の明かり窓の角度・高さも設計段階から考慮した構造となっており、理想工場になっていると予想できる。工場の南には、当時の従業員住宅が現存しているが、もうすぐ解体される運命にある(写真3)。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大学大学院工学研究科修了。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、蘇州市ある日系2500社、約1万人の邦人と共に、日中友好にも貢献してきた。2015年からは最高顧問として中国関係会社を指導する傍ら、現在も中国関係会社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中国や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演会を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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