<コラム>日本企業が担った、青島における近代繊維工業の発展

配信日時:2018年9月14日(金) 21時40分
日本企業が担った、青島における近代繊維工業の発展
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山東省青島市において、日系紡績企業が進出するまで近代工業はほとんど存在していなかったが、有利な工業立地条件と優位な経営環境の下で、紡績繊維工業が飛躍的に発展した(中国大陸の綿花生産の40%が山東省)。写真は筆者提供。
山東省青島市において、日系紡績企業が進出するまで近代工業はほとんど存在していなかったが、有利な工業立地条件と優位な経営環境の下で、紡績繊維工業が飛躍的に発展した(中国大陸の綿花生産の40%が山東省)。青島の工業化は日本企業の資本投下から始まった。

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日系紡績企業は中国大陸進出にあたり、まず上海に展開、その後青島に集中した。上海では紡績工場は日本国内と同じく女性(女工)が中心であったが、青島は逆に男性(男工)が多数を占めていたことが1929年に起こった青島糸廠労働争議での解雇割合から理解できる。日系企業の特徴として、技術労働者に対する教育訓練システムがあったことと、労働者への寄宿制度と福利厚生制度としての医療・食堂・体育設備・倶楽部制度などが確立されていた(鐘紡跡に痕跡を確認できる)。

日本から紡績事業を移転するにあたり、先端的技術ばかりでなく生産現場の技術者に対しても日本国内と同じく、教育訓練が実施された。これは繊維産業以外のあらゆる産業にも言える。戦後、中華人民共和国になっても中国が繊維産業を含む多くの工業に対して著しい進歩ができた背景に、こういう技術者への日本式育成プログラムの存在があったからとも言える。

大正5年(1917年)青島守備軍民生部の基本方針として、まず「市街地を大港方面に拡張し、ここに商工業地区を建設する」であった。さらに、青島東北部の台東鎮からその北部の四方・滄口までを包括する「大青島」を模索実現することになった。この日本政府の方針と相まって、当時1、2を争う日系紡績会社が新たに青島市北部に造成された広大な四方・滄口地区に進出した。

1916年(大正5年)以降、四方地区に内外綿(シキボウ)を皮切りに、大日本紡績(ニチボーその後ユニチカ)・日清紡績・鐘淵(カネボウ)・富士瓦斯紡績・長崎紡績・豊田紡績(トヨタ)・国光紡績(クラボウ)などが進出、戦後中国側に接収され解放後は国綿第一工廠から第九工廠と名称変更されて近代中国の工業を支えた(図1)。

かつて日本に大手紡績会社として10社(十大紡)があった。大日本・東洋・鐘淵・富士・日清・倉敷・大和・敷島・日東・呉羽(東洋紡と合併)である。

1937年日中戦争直後、日本軍占領対策に対抗して全ての日系紡績会社が破壊焼滅されたが、1938年1月10日の日本軍第二次占領後に再興された。解放後の1950年~90年初までが青島市経済発展に一番貢献した40年であった。その後、繊維工業が低迷するなか、広大な敷地は整地されて次第に高層アパート等の住宅地に改装されたが、築80年を越える日本式建築の事務所・工場・西洋風住宅がまだ一部に残っている(写真1)。

現在、この工場群は築80余年以上と老朽化し、その大半が住宅として立て替えられつつある。中には一部が博物館となって日本工業の源泉を垣間見ることができる工場もある。青島国綿工廠(第一工廠~第九工廠)について当時の写真や現在の写真を見ながら、中国近代工業を担ってきた当時の日系企業の姿を振り返ってみたい。

■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、日中友好にも貢献してきた。
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