<コラム>ひっそりと現存する、南京日本国大使館を訪ねて

工藤 和直    2018年7月2日(月) 18時40分

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南京市は古くから長江流域・華南の中心地で、江蘇省の省都でもあり「中国四大古都」の一つといわれ、近年では中華民国政府首都ともなった。写真は筆者提供。

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南京市は古くから長江流域・華南の中心地で、江蘇省の省都でもあり「中国四大古都」の一つといわれ、近年では中華民国政府首都ともなった。高速鉄道南京駅は玄武湖の北にあり、地下鉄1号線南京駅から鼓楼駅で降りて西、鼓楼公園方向に行くと、南京市北京西路3号(鼓楼西南角一帯、1~3号)に武装警察大隊南京支隊がある。この付近は、現在は一般人立入禁止区域となっている。

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ここに1930年~45年の間、南京大日本帝国大使館があった(敷地8495平米、南京一号建築物:写真1・2)。日中戦争前から終戦までの南京公使館(その後の大使館:写真3)・総領事館の歴史を下記に示す。南京には、中華民国との外交窓口になる大使館と邦人保護と通商関係援助のための総領事館(写真4)と二つの日本国政府機関があった。(写真5)は工事中に見つかった当時の大使館租界石碑である。

・1925年12月26日、旧満州出兵に対する抗日運動が公使舘前で発生。

・1926年05月30日、金陵大学・東南大学他による五卅事件1周年運動が発生。

・1935年05月17日、公使舘から大使館に昇格。

・1935年12月09日、学生運動起こる。

・1936年06月10日、南京中学学生連合五卅中学部分子生がデモ。

・1937年07月07日、日中戦争勃発時、総領事館は白下路にあった。

・1937年12月13日、中正路(白下路)の総領事館を大使館隣に移す。

・1939年06月10日、南京総領事館にて砒素入り毒酒事件が発生。

・1940年03月30日、偽国民政府成立後、「大日本帝国大使館」増設

・1945年08月15日、終戦。

中華民国南京国民政府(1940年成立)の首相だった汪兆銘は親日家(漢奸)といわれ、中国史上最悪の売国奴と称される。果たして彼が心から売国奴であったか、うわべだけの親日家だったのかは、後世の歴史学者が証明するとして、日本軍を利用してでも中国国民に一刻も早い平和な暮らしを希求したと解釈できないことはない。

彼は、1944年11月10日に名古屋大学医学部で死去するが、その後ここ南京の中山陵西南梅花山で孫文と同じく葬られた。しかし戦後は漢汗として死後処罰され、1946年1月21日には墓を暴かれた。死後1年2カ月だったが、防腐剤処理をされていたため腐乱しておらず、遺体はこの清涼山の火葬場にて焼却、墓は爆破されたという。彼の妻は監獄に送られたが、最後まで夫の過失を認めず獄死、その子息は海外で安住の棲家を得たのが少なからずの朗報であろう。

■筆者プロフィール:工藤和直

1953年、宮崎市生まれ。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、日中友好にも貢献してきた。

■筆者プロフィール:工藤 和直 1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大学大学院工学研究科修了。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、蘇州市ある日系2500社、約1万人の邦人と共に、日中友好にも貢献してきた。2015年からは最高顧問として中国関係会社を指導する傍ら、現在も中国関係会社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中国や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演会を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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