<コラム・海峡両岸ななめ読み>「民主化」議論を開いていくための新たな視点―ある在米中国人の訃報から

Record China    2012年5月9日(水) 7時41分

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89年の天安門事件の精神的指導者で、事実上米国で亡命生活を送っていた方励之氏が滞在先のアリゾナ州で逝去した。写真は中国から台湾へと移ってきた外省人知識人・雷震らにより創刊された非公認雑誌「自由中国」の創刊号(1949年11月)。

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3月末から5月初めにかけて、日本国内で大きな注目を浴びた中国関連の出来事といえば、薄煕来・前重慶市共産党委員会第一書記の事実上の失脚ということに尽きるだろう。確かにこのことはいろんな点で重要であることに異存はないが、現時点では様々な情報が入り乱れている。いずれ時間がこのことについての評価を明らかにするだろう―ということもあって、ここでは紙幅を割かない。その代わり、一部を除きあまり注目度は高くなかったが、筆者個人としては感慨深かった一つの訃報について触れたい。

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▽思い起こされるほろ苦い日々

 

それは89年のいわゆる(第2次)天安門事件での精神的指導者で、事実上米国で亡命生活を送っていた方励之氏が滞在先のアリゾナ州で逝去したとの訃報である。僕はそれを当初偶然ツイッターで見つけた。フォローしている王丹(元民主化運動のリーダーで現在台湾・米国で研究生活を送っている)のツイッター記事だったのだが、自分の中国語読解力に自信もなかったので「あれあれ?」と思っているうちに、彼のツイートをリツイートする形である日本人が紹介していたので、「あ、やっぱり方励之は亡くなったのだ」と確信した。NHKが彼の逝去を流したのがその数時間後。日本のメディアはちょっと遅いと思ったのだが、その遅さよりも、その後のNHK以外のものも含めて、そして89年当時の運動に寛容であったとされる趙紫陽元総書記が2005年に逝去した時と同様、今回の方氏の訃報の扱いが日本国内では淡々としたものであったことに若干の違和感を覚えたのである。

 これは、筆者がちょうどこの時期の中国民主化運動家と同世代で、にもかかわらず彼らと違って、日本国内では政治の季節が過ぎ去った世代として、彼らに対しある種の尊敬の念と後ろめたさを覚えながら生きてきたせいかもしれない。あの当時、彼らが主張する民主について考えてみることは大事であることは分かっていながら、テレビに映る彼らの存在を意識はしながらも、筆者自身は、中国とはまるで政治的土壌が異なり、シラケの時代に入って久しかった日本社会が自らに要求すること―新卒としての就職活動に集中せざるを得なかった。

そうして入ったところを辞めてしまったのはひとえに筆者の根性のなさに帰せられるものだが、あえて強弁すると、その時の思いが消化しきれてなかったためだということも言えなくもないのかもしれない。ともあれ天安門とは、公的な次元では中国現代史における一大転換点なのだろうが、自分の個人史にとってはそのようなほろ苦い青春の日々を思い起こさせる記号なのである。

 

▽中国の民主化をめぐる2大論点

 

 ところでこの中国の民主というものに関していえば、世界的にも、日本国内でも、そして現地中国内外でも、大雑把には2通りの捉え方があるようだ。大雑把には、というのは、本来は様々なバリエーションがあるはずのものを無理やり分けた場合には、という意味で、さまざまにツッコミどころもあるだろうが、やや無謀を承知であえて大別してみる、ということである。

 

一つは、一応は西側に住む私達にとって馴染みのある概念で、議会制民主主義、公正な選挙の実施、法に則った国家・社会運営、「普遍的な」人権概念といった条件を前提にした民主主義概念である。こういった次元での中国の「不足」は、なんらかの形で中国国内で民主化・人権活動家や農民、労働者に対する人権抑圧的な動きと解釈される事態が出てきた時には大きく問題化される。また先に言及した方励之氏が逝去した場所が米国内であったこと、また最近盲目の人権活動家、陳光誠氏が保護された場所が米国大使館であると報じられていることからもわかるように(ちなみに薄熙来氏失脚の発端となった、側近の王立人氏が駆け込んだ場所も重慶の米国総領事館だったが)、こうした民主主義概念の参考となる基準は今のところ米国に置かれていると言えるだろう。自分個人としても、こうした一連の報道がなされる時、中国に批判的な見方が出てくることは否めないところはある。

 

ただし、こういった次元での民主主義概念は、成熟した市民社会と、確固とした国境線が確定しているとされる、いわば社会科学上で理念型とされるような国家にしか当てはまらない、という反論はありうる。自分個人の理解としては、それが良いか悪いかの判断はひとまず留保するが、前回も書いたように、中国の場合、今のところそんな状態ではなく、最近ようやくそうした理念型的な方向を目指し始めたのではないか、という感じにも見て取れる。これを前提とした場合、先に挙げた西欧的な民主概念はまだ「ぜいたく品」であり、人権弾圧・抑圧的な事態には確かに問題はあるが、まずは理念的な国家の方向を目指す中国の現況に鑑みれば、社会不安を抑制し膨大な人々を食べさせていくことが先決、という考え方も出てくることになる。この考え方は中国指導部の現状認識にも重なってくるところもあるだろう。

 

この2つの考え方は、当然共通点より、違いのほうが多く、それゆえに自分の知りうる限り89年以降の日本国内の文脈では周期的に論争が発生し、かつその時々で対立関係が表面化してきたように見受けられる。自分個人としては、詳細は省くがこの2つの考え方はそれぞれに一長一短があり一概にどちらが絶対的に正しいとは言い切れない。前者の感覚は自分が身を置く日本の現実からしても、いわば生来的に、またその後の職業などを経て刷り込まれたデフォルトの感覚であることは否めない。しかし一方、自分を日本という場から引き離してみた上で中国は特殊であるという特殊論に立つと、確かに後者の考え方も十分に成り立つことも理解できる。したがって自分としてはどちらが正しいかという価値判断はひとまず留保せざるを得ないが、ここでは次元の異なる別の論点を提起したい。

 

▽まずは足元を見直すことから

 

 それは民主化問題に限らず中国に関わる話題は中国専門家の間でのみしか論じられない傾向があるために、議論が狭い専門家間の中だけに限定され、広く世間一般に共有されず関心が得られていない、ということである。もともと知識というものは専門家と初心者の間の格差が大きいものではあるが、特に「中国」に関する知識量は、日本国内では専門家と、初心者・素人の間では格差が大きすぎるのである。例えば専門家がシンポジウムで中国革命の意味について口角泡を飛ばして議論し合っていても、それを聴く聴衆のかなりの部分は実は中国がいつ建国されたかさえも知らない、という状態もザラである。

中国民主化問題についても然りで、専門家間の議論が広く共有されないがゆえに、世間一般的には「メディアで騒いでいるけどよく分からない」ひいては「なんか怖い」という人の方が多いというのが正直なところなのではないか。その知識量の格差は、天安門事件が収束してしまった原因の一つとして、当時の中国国内でやはり知識人である民主化運動家とそれ以外の人々、特に労働者層との知識格差が大きかったことをも彷彿とさせる。

 

しかしグローバル化がもはや定着し、日本に定住する中国(籍)人、のみならず日本で生まれ日本語で成長したその子弟、海外旅行の解禁に伴う中国人観光客が急増し、すぐお隣は中国の人という時代になった今、専門家ではない人にも中国に対する一定のリテラシーが求められるようになってきている。ということは中国民主化に関する議論も、閉じた専門家間ではなく非専門家にも開かれたものになっていく必要があるということだ。そのためにはどのようなことが今後求められていくだろうか。

 

筆者は、中国の状況を日本という足元から切り離して対岸のものとして考えるのではなく、足元の日本の状況をまず考えてその延長線上で考え、また翻って中国の状況から日本の状況を考えることを提起したい。言い換えれば中国の民主化・人権状況についてはいろいろ言われているようだが「じゃ日本はどうなの?」と自らの足元をも振り返る眼差しをも持つことも必要ではないか、ということだ。これは筆者個人の見解だが、中国の民主化が議論される時それを論じる場である日本の状況は全く捨象されているように思う。しかし実は日本においても民主主義概念・人権状況は十全ではなく、中国の状況「だけ」を批判できるような状態にはないのではないか―というのが筆者個人の考えだ。

 

▽日本の「状況」も俎上に

論拠は複数あるが、その一つとして、日本でもまだ死刑執行が完全には廃止されていない、ということを挙げておきたい。むろん日本の場合、死刑執行に至るまでの法的手続きは慎重に踏まえられてはいるだろうし、世界的な死刑批判の潮流の中で執行数はそう多くはなくなってきているのかもしれない。だが未だに死刑が廃止されていないという点では、より人権意識の進んだ地域から見れば中国も日本も大同小異ではないのか。筆者個人は、死刑執行数という分かりやすい指標以外でも、日本社会のさまざまな場において理想的な民主・人権概念が完全に浸透しているとは到底思われず、目には見えにくいし中国とは種類は違うかもしれないが、抑圧的な状況は日本国内にも多々あると考える。いや、おそらく民主主義の本場とされる米国でも、その社会の仕組みの複雑さを考えると実はなおさらそうなのではないか。

 

こうした考え方に立つ場合、中国の民主化状況を批判することは「あり」であり必要ではあるだろう。が、それが中国の状況「だけ」を抽出して批判することに終始しているだけでは、中国に深いリテラシーを持たない日本社会一般に関心は共有されず、これまでの閉じた議論のパターンを踏襲することになりかねない。そうではなく中国の状況を考える延長線上で、日本の状況をも俎上に載せ、まずは足元で起きている事態をも批判的に考えていくべきであり、その上で日中以外の対象にも比較の幅を広げるべきではないのか。

そのためにはこれまでとは違う形で、より地域を問わず通用するような、より普遍的な民主主義概念を、一つの基準として創りあげていく必要があるだろう。その際に、中国大陸とも、日本ともある程度は類似した歴史的過程を持つ台湾の経験もかなりの程度参考になるのではないだろうか。

(本田親史/国士舘大学アジア・日本研究センター客員研究員<PD>)

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