<コラム>中国で破壊され、台湾で保存された日本の神社の現在の姿

配信日時:2018年6月2日(土) 19時10分
中国で破壊され、台湾で保存された日本の神社の現在の姿
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戦前、旧満州やその南の租借地であった関東州に、日本人居留団によって日本人学校や神社仏閣が進んで造られた。写真は筆者提供。
戦前、旧満州やその南の租借地であった関東州に、日本人居留団によって日本人学校や神社仏閣が進んで造られた。邦人の保護を目的に日本人租界地に領事館が設立され、神社仏閣も並行して創建された。いわゆる半植民地化の例が租界であるが、日本は戦前中国内に日清戦争後8つの租界地を持った。杭州(1897年開設)、蘇州(1897年開設)、漢口(1898年開設)、天津(1898年開設)、重慶(1901年開設)、沙市(調印後未開設)、福州(調印後未開設)、厦門(調印後未開設)の租界地である。上海租界地は海外列国との共同租界地であり日本人租界地ではない。

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これら租界の内、神社が確認されなかったのは蘇州・重慶・沙市であった。天津神社(1915年11月創立)は天津総領事館の北対面(現在の山東路を挟んだ北)にあった。(写真1)は天津総領事舘と天津神社が写った航空写真と現在の写真を重ねたものだ。現在も天津神社社務所が現存している。

参拝殿や本殿が現存しているのは、南京神社(1944年創立)・シ川神社(1940年創立、シ=さんずいに緇の糸なし)・西安神社(1935年創立)である。南京神社の参拝殿部は木造で、その後部の幣殿と本殿はコンクリート製に改装されている。また、南京神社東隣にあった護国神社側の社務所が現存している。山東省シ博市シ川区に現存するシ川神社本殿(シ=さんずいに緇の糸なし)は、昭和15年創建時にコンクリート製であったのが幸いしたのか、現在まで破棄されずに残った。その理由は、建築物として利用できるものは徹底利用したからであろう。

旧満州の新京(長春)市は偽満州国首都であった。長春神社の北面の鳥居が残っている(松江路側)。参拝殿は改修されて現存している(その骨格は確認できる)。同じく奉天(瀋陽)神社の本殿も1985年代まで現存していたが、今はすでに切除されている。また、奉天市から北東部の文官屯にも鳥居(文官屯神社)のみが現存している。長春神社は公立幼稚園構内であり、文官屯神社は大学構内であったのが幸いしたのか。しかし、これら神殿は築後80年近い歳月が過ぎ、本殿崩落や鳥居倒壊の危険性もある現在、日本神社施設を歴史証人として後世へ引き継ぐためにも早期に補強改修保存される事を切に希望する。

台湾は日清戦争後下関条約(1895年)から植民地となり、その後日本主導で近代化が進み、反日感情が弱いのが幸いして戦後も多くの神社が残っている。桃園神社と通霄神社の社殿・鳥居・参道は当時のまま残っている(写真2)。台湾は1972年の中台断交によって多くの神社が破棄された経緯がある。かつて鄭成功の廟が開山神社となったのと逆に、日本神社が台湾政府下では英雄廟として宗教儀式の場に再利用された例もある。

台湾桃園国際空港南東10キロメートルにある桃園神社(1938年創立、桃園区成功路三段200号忠烈祠神社文化園区:写真2)跡は参道から本殿まで当時のままであり、手水舎・社務所・石灯篭などが神社内に整然と並んでいる。日台関係悪化の際に、破壊される意見と文化財保存の意見に分かれたが、その後桃園市の文化財として補修されて現在に至っている(国家第三級古跡)。

大陸から引き上げた蒋介石の考えもあったのか、彼が中華民国首都南京に居た時にあった五台山南京神社が現在まで残った背景に、彼なりの意向があったかもしれない。また不思議なことに、日本に蒋介石を祭った神社が存在する(蒋公神社)。そして現在台湾では神社復旧の気運さえある。最後に終戦時の1枚(写真3)があるが、空襲によって廃墟になった神社に立つ鳥居の前で一礼をする女性の姿である。たとえ本殿はなくても、鳥居の向こうに御神体が居られることを実証している。御神体とは形でなく心にあるのだ。

■筆者プロフィール:工藤和直
1953年、宮崎市生まれ。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、日中友好にも貢献してきた。
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