<コラム>水の都「蘇州」にあった、蘇州日本人租界地跡を歩く

配信日時:2018年4月17日(火) 19時0分
水の都「蘇州」にあった、蘇州日本人租界地跡を歩く
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蘇州にも日本人租界地があったという話を駐在間もないころに聞いた。写真は筆者提供。
蘇州にも日本人租界地があったという話を駐在間もないころに聞いた。日清戦争後の1895年、下関条約により蘇州租界地構想が持ち上がり、当初蘇州城ショウ門(ショウ=門構えに昌)外石路周辺の繁華街を日本政府は望んだが中国側の大反対により、当時は墓場(孫堅と呉夫人:呉王孫権の父母)だった盤門の南(盤門路・南門路の南)青暘地に決まった(写真1)。

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西は人民路南第26中学(元蘇州尋常高等小学校)から、その東隣の金葉糸服有限公司内にある蘇州日本領事館、東は南園路、南は東西に走る生活用運河に至る約32ヘクタールである。南園路から滅渡橋までの東29ヘクタールはアメリカなど欧米各国との共同租界地とした。共同租界地には税関交易所が作られている。杭州も同じような税関交易所(第二病院敷地内)がある。この共同租界地の南に日本陸軍の飛行場があった。また当時の領事館前で写した写真がある(写真2)。現存する蘇州領事館跡に行って思うが、玄関が東を向いている。これは東に発展する租界地の要となるべきことと、東京(皇居)方向を意識したと予想する(写真3は現在の姿)。

1887年:3月5日に租界成立(借用期間30年)
1902年:在蘇州日本領事館建設(上海分館)
1903年:東西貫通大道1本と南北小道7本、路に桜・柳植樹
1919年:領事館代理大和久義朗は24名の常駐日本人を報告
1924年:領事館領事岩崎栄蔵は租界地に片倉製糸建設を提案
1934年:日本人駐在者78名、尋常高等小学校生徒22名
1937年:日華事変により、駐在員・領事館員は上海へ撤収
1945年:日本の敗戦により租界地は終了

当時の記録によると、租界地内の道路には多くの桜が植えられ、毎年春は蘇州内外から多くの観賞客が来て異国情緒を満喫できる蘇州の新風物詩となったと記録がある。現在、蘇州高新区から39番のバスで外堀南にかかる南園橋を渡ると南園橋南のバス停がある。その西に面する内馬路が1903年記載地図の東西貫通大路(朝日町)の一部である事が容易に推測される。(図1)から見て記載の20尺(約6m)の道はそのままであり、その延長が蘇州領事館の玄関になるのではと思う。ここが正に日本人が多く生活した場所であるが、今はその面影はまったく感じられない。当時は日本式旅館に郵便局などもあった。両側にある公園に桜や柳の木々はなく、石々の痕跡にも日本を思い出させる匂いも感じられない。

(写真4)は現在蘇州革命博物館にある1.7メートル長×36センチメートル幅の石碑(光緒23年4月と刻印:1897年)である。民国2年(1912年)の蘇州府城之図や民国29年(1930年)の呉県城図などから、当時の租界地では南園路が昔の緑河街で、そこから西に一条通りから七条通りまで南北に最後に大馬路が西端になる。東西に走る道路は、北から当時としては蘇州で最大の30メートル幅の馬路(現在の盤門路・南門路)、その南が大和街、朝日町、桜町と4本と東西南北が区画化されている。

現在も確認できる内馬路は、朝日町と四条通りの鍵形の道路である。四条通りの北延長に、南堀にかかる橋(蛇門橋となるはずだった)と蛇門予定地があり、城内にはそこから北に蛇門路が続き、現在の竹輝路で左折する予定だったと民国29年の地図から確認できる。大和街には、中村旅館や日本郵便局があった。その東には加藤石鹸公司が確認できる。日系企業の大東汽船(貨客運輸)、片倉製糸(絹織物)、吉原繁子旅館、酒作(醸造)、亜細亜石油、丸三薬店、湯浅洋行、精養軒旅館、備後屋工場(ござ製造)などが確認できる。現在地下鉄人民橋南駅東にある第26中学(南環実験中学)が蘇州尋常高等小学校であった。

■筆者プロフィール:工藤和直
1953年、宮崎市生まれ。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、日中友好にも貢献してきた。
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