中朝国境の昔と今、命懸けで渡る理由は…「お腹いっぱい食べたい」―中国誌

Record China    2011年12月23日(金) 8時30分

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20日、中国の時事週刊誌・中国新聞週刊は、中国の「北朝鮮に1番近い街」、吉林省延辺朝鮮族自治州の村民から聞いた国境付近の昔と今を報じた。写真は中朝国境を流れる川「鴨緑江」。

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2011年12月20日、中国の時事週刊誌・中国新聞週刊は、中国の「北朝鮮に1番近い街」、吉林省延辺朝鮮族自治州の村民から聞いた国境付近の昔と今を報じた。

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同自治州図們市月晴鎮の馬牌村は、中朝国境の川「図們江(豆満江)」を隔てた向こう岸が北朝鮮。川幅がほんの数十メートルしかないところもある。清朝末期に北朝鮮から渡ってきた人たちがここに村を作って住み着いた。村民の80%は朝鮮族で、今でもお年寄りの多くは中国語が話せない。

昔は中国側から北朝鮮側に渡る人が多かった。中国が大飢饉に陥った1959年からの3年間、夜間こっそりと渡っていく村民の姿も。1967年、北朝鮮の国民総生産(GNP)が53年比8.6倍に達したころ、延辺に入ってくるコメのほとんどは北朝鮮から運ばれてきたものだった。当時は「貧しい中国から豊かな北朝鮮」に食いぶちを求め、川を渡るというパターン。文化大革命の際には迫害を逃れるために向こう岸に渡った人もいた。

ところが、中国で改革開放が始まると形成は逆転。北朝鮮は外国からの援助が激減し、経済状況が徐々に悪化。今度は北朝鮮からお腹を空かせた人が川を渡ってくるようになった。ピークは1997〜1999年。図們市内でオートバイタクシーを運転していた李(リー)さんは当時、1週間に何人もの「脱北者」を親戚宅まで届けたという。「一目見て栄養不良と分かる顔。裸足で足の裏から血を流していた」と話す。

その後、取り締まりが厳しくなり、川を渡るのが難しくなった。2002年に日本の瀋陽総領事館に北朝鮮人の一家が亡命を求めて駆け込む事件が起きたが、これもその影響の一端とみられる。2005年ごろから村の国境警備は警察から軍に管轄が変わり、鉄条網が張られ、多数の隠しカメラが設置されるようになった。

70年代、中国人も北朝鮮人も一緒に図們江で遊んだ。中国側で映画を上映する時は北朝鮮の子どもたちがこっそり見に来たことも。だが、今はもうその面影はない。北朝鮮は2006年と2009年に地下核実験を実施。2回目は月晴鎮から120kmほどしか離れていない場所だった。住民たちは「地下水の汚染が心配。当局は検査してくれているのか」と不安をあらわにしている。(翻訳・編集/NN)

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