戦争に負けた相手に学んだ点は日本も中国も同じ―中国メディア

Record China    2011年4月21日(木) 20時24分

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20日、戦争に負けた西洋列強から進んだ文化を学んだ日本人。そして、今度は日清戦争に負けた日本人に学び変革に生かそうとした中国人。「敗戦」が両国の国民に図らずも同じ行動をとらせた。写真は12日、武漢市で辛亥革命100周年を記念して描かれた孫文の絵。

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2011年4月20日、戦争に負けた西洋列強から進んだ文化を学んだ日本人。そして、今度は日清戦争に負けた日本人に学び変革に生かそうとした中国人。「敗戦」が両国の国民に図らずも同じ行動をとらせた。鳳凰網が伝えた。以下はその概略。

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1853年のペリー来航以降、世界に門戸を開いた日本は大量の留学生を西洋諸国に派遣。彼らの一部が帰国後、明治維新と明治政府の中心メンバーとなった。そして、1894年に伊藤博文は朝鮮半島の侵略と日清戦争を画策。戦後、中国と「日清講和条約(下関条約)」を締結した。そして、翌1985年から今度は中国で「日本へ渡れ」という言葉が席巻する。

李鴻章が日本で屈辱の「下関条約」を結んだ同じ頃、前駐日大使の黄遵憲による著作「日本国志」が世に送り出される。そこには明治維新が日本にもたらした様々な変化が逐一記録されていた。その後、康有為が「日本政変考」を書いた時も多くの内容がコピーされた。清の光緒帝もこれを読み、強く啓発されたという。

1898年6月、光緒帝は「明定国是詔」を下し、政治改革を宣言。西洋に学び新たな政治制度を作ることを目指し、康有為ら変法派にその推進を委ねる。「明治維新」をコピーした中国の「百日維新運動」の始まりだった。これらの運動は「戊戌(ぼじゅつ)の変法」と呼ばれている。30年続いた明治維新に対し、この運動はわずか103日で失敗に終わったが、この国に啓蒙を与えたことは確かだ。

その後、日本は路頭に迷った康有為や梁啓超を引き取った。さらに多くの政局に失望した人々が日本に渡った。1898年当時の在日中国人留学生はわずか数十人だったが、1899年には120人、1903年には1300人、1904年には3000人、そして1905年末には8600人に達する。この年、日本はロシアとの戦争に勝った。黄色人種が初めて白人を打ち負かしたことは、若き中国青年たちの血をさらに熱くたぎらせた。(翻訳・編集/NN)



   

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