<レコチャ広場>マルクス主義は日本経由で中国に持ち込まれた―中国

Record China    2011年2月22日(火) 19時38分

拡大

25日、中国の作家、陳令申氏は「マルクス主義は日本経由で中国に持ち込まれた」と題した記事を中国のブログサイトに発表した。写真は05年7月、上海公安博物館で開催された「紅色之源、マルクス主義文化芸術作品展」。

(1 / 4 枚)

2011年1月25日、中国の作家、陳令申(チェン・リンシェン)氏は「マルクス主義は日本経由で中国に持ち込まれた」と題した記事を中国のブログサイト・網易博客に発表した。以下はその内容。

その他の写真

中国共産党の創設に関わったメンバーのうち、マルクス主義理論に造詣が深くその普及に貢献を果たした人物は、李大ショウ、李達、李漢俊、陳望道の4人だ。蔡元培は1920年の著書「社会主義史序」の中で、「西洋の社会主義が中国に入って来たのはわずか20年前。日本帰りの留学生が日本から間接的に持ち込んだものと、フランス帰りの留学生がフランスから直接持ち込んだものに分かれる」と書いているが、特に日本組が果たした役割は大きい。ここで日本帰りの李大ショウと李達の功績を紹介しよう。

1913年冬、李大ショウは友人の協力で早稲田大学への入学を果たした。天津の北洋法政学堂時代の同級生によると、当時の日本の思想界はとても進歩的で共産主義者がすでに存在した。李は日本でマルクス主義と出会い、多くの書物を読み、多くの文章を書いたのである。1917年に帰国すると、李は一般の民主主義思想を超越し、社会主義思想を持つようになった。十月革命勃発後、李は直ちに「フランスとロシアの革命を比較して」「ボルシェビズムの勝利」「庶民の勝利」などの文章を発表した。

李達は1913年、湖南の官費留学生として日本に渡ったが翌年、病気のため帰国。1918年春に再度日本に渡り、日本第一高等学校理科への入学を果たす。そして、日本の新聞から十月革命の勃発を知り大いに喜んだ。それから関連記事を追っていくうちに、「過激派」と「過激主義」は「ボルシェビキ」と「ボルシェビズム」だと知る。「ボルシェビズム」はレーニン主義、レーニン主義はマルクス主義―。こうしてマルクス主義やレーニン主義という名前を覚えていった。

李達は日本でマルクス主義理論の研究を始めた。五四運動が起きると、中国国内の雑誌で積極的に社会主義思想を紹介。1919年後半には上海・民国日報の副刊「覚悟」で「社会主義とはなにか」「社会主義の目的」と題した文章を立て続けに発表し、李大ショウによる「私のマルクス主義観」に次ぐマルクス主義の重要な文章とされた。1918〜1920年、李達は「マルクス主義の3つの源泉と3つの構成部分」が書かれた日本の書物を中国語に翻訳し、1921年5月に中華書局から出版された。当時、マルクス主義に関する書物はほとんどなかった中国で、これらの翻訳本はある程度の啓蒙作用を果たした。

彼ら日本帰りの留学生たちは中国におけるマルクス主義の普及に永遠に消えない功績を残した。彼らは日本で学び、それを祖国での革命に応用したのである。(翻訳・編集/NN)



   

we`re

RecordChina

お問い合わせ

Record China・記事へのご意見・お問い合わせはこちら

お問い合わせ

業務提携

Record Chinaへの業務提携に関するお問い合わせはこちら

業務提携