<在日中国人のブログ>偉大な革命家・孫文は100年前から「日中の連合」を夢見ていた

Record China    2011年2月17日(木) 11時41分

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14日、華字紙・中文導報の楊文凱編集長は「中日の連合は孫中山が100年前から夢見ていたこと」と題した記事を中国のブログサイトに掲載した。写真は1月、辛亥革命の発端となった「武昌蜂起」の火ぶたを切った「起義門」。修復中である。

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2011年2月14日、華字紙・中文導報の楊文凱(ヤン・ウェンカイ)編集長は「中日の連合は孫中山が100年前から夢見ていたこと」と題した記事を中国のブログサイト・鳳凰博報に掲載した。以下はその概略。

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今年は中国近代史の重要な転換点となった辛亥革命が勃発してからちょうど100周年にあたる。偉大な革命の先人、孫中山(孫文)は日中両国で尊敬され、今も語り継がれている。近代の政治史上で最も有名な知日派の指導者、孫中山と日本との関わりは深い。

日本では昨年11月、「孫文の理想と東アジア共同体シンポジウム〜辛亥革命百周年をどう迎えるか〜」が開催されるなど、様々な記念イベントが行われている。菅直人首相は旧正月に「指導者・孫文に日本人の多くは共鳴しており、こうした友好が現在の日中関係を作り上げた」と祝辞を述べたほか、「中国問題懇談会」(仮称)も発足させた。日中友好の象徴である孫中山の力を借りて両国関係の改善を図ろうとしているのだろう。

孫中山の本名は孫文。「中山」は号だが、これは日本人の姓からとったものだ。日本滞在中に「中山」という邸宅を見かけ、それが気に入ったようで日本では「中山樵(しょう)」を名乗っていた。孫中山という名は、1902年に宮崎滔天が書いた「三十三年の夢」が日本留学中の章士ショウによって翻訳された際に誤って記されたもの。恐らく章は孫文と中山樵をうっかり混ぜてしまったのだと思う。

公私ともに日本とのゆかりが深い孫中山は、1895年に広州で武装蜂起を行った際も広州の日本領事館に事前に武器の援助を要請している。中華民国臨時政府の成立後も日本の財閥に財政面の助けを求め、経済、法律、軍事など各方面に日本人顧問をつけた。これほど日本に豊富な人脈を持つ中国人は他にいないだろう。一生の友となった梅屋庄吉をはじめ、犬養毅元首相や戦前最大の右翼団体「玄洋社」の総帥・頭山満、宮崎滔天など幅広い。

「大アジア主義」者だった孫中山は早くから中国と日本は連合すべきだと説いていた。そうでなければ黄色人種が台頭する日は来ない、と。孫中山は100年前から「日中連合」の誕生を夢見ていたのである。(翻訳・編集/NN)

●楊文凱(ヤン・ウェンカイ)

日本華字紙・中文導報編集長。上海復旦大学中国語学科卒業。95年に来日。98年に中文導報入社。著書にコラム集「卒業10年」、社説集「天涯時論」、インタビュー集「人在旅途」など。

※本記事は筆者の承諾を得て掲載したものです。

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