中国で見つけた!聖子と同じ「天才」 ―伝説のプロデューサー独占インタビュー

Record China    2009年12月25日(金) 12時32分

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09年12月、松田聖子を発掘し育て上げた伝説のプロデューサー若松宗雄氏がこのほどインタビューに応じた。新たに中国でめぐり合った「大スター・松田聖子」に通じる「生理的な感性」を感じさせる存在とは。写真はJade Yin。

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2009年12月、松田聖子を発掘し育て上げた伝説のプロデューサー若松宗雄氏はこのほどピュアボイスミュージックのインタビューに応じ、「大スター・松田聖子」誕生の秘話、そしていま彼女に通じる「生理的な感性」を感じさせる存在の中国人歌手にめぐり合った喜びを語った。独占インタビューの全文は以下の通り。

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■松田聖子の黄金時代をプロデュース

●若松宗雄さんといえば、音楽業界では松田聖子を発掘し育て上げたプロデューサーとして有名ですが、まずは、松田聖子さんの声を初めて聴いたときの印象からお聞かせ頂ければ。

―そうですねスカウト時のことを話せば話は長くなるんですけど…。1978年にCBS・ソニーが主催したあるオーディションの応募者のデモテープを写真も履歴書も見ずに片っ端から聴いていたんですね。百数十本あったかなぁ。パッパッと聴いてて、その中で「ん?」と強い印象を感じた歌声があったんです。それが聖子のテープでした。

歌のヒットって何が一番大事かというと、音楽的なことじゃなくて生理的なことなんですよ。その人が持っている知性とか品性、そういういろんなその人自身の生理的な感性、これが聴く者の心を捉えるんですね。そういう感性がこの歌声にはあったんです。スーッと美しく伸びる透明な歌声、これに品性・知性・哀愁などいろんな天才的資質が絡まっている。

“エーッこれは半端じゃないないな−!!!”って思ってね。で、当時ほかのディレクターなど周りの人達に聖子の歌を聴かせたんだけれども、実はスゴイなと感じた人はいなかったんですよね。それに父親からは猛反対されたり、プロダクションも実はすんなり決まったわけではなかった…。だけど自分の直感を信じて、進めて行ったんです。

音楽制作って“感性”なんですよ。話し合って決めてたんじゃ、いいものなんか絶対できっこない。文化っていうのは理論より"感性"が大事なんです。

●そして1980年4月に松田聖子さんは『裸足の季節』でデビューするわけですが、若松さんが聖子さんのプロデューサーとしてご担当されたのは、聖子さんご結婚までの約5年間…

―いや、結婚後も。結婚後復帰させたのが私ですから。どうやって復帰するか、聖子と原宿の喫茶店で会って決めたんですよ。Strawberry Timeまでが私の担当でした。

●ご担当の期間、出す曲、出す曲すべてヒットしていましたね。

―うーん、そうですね、たしかに私が聖子を担当していたときは、デビュー曲を除いてシングルはオリコン1位を取ってたんじゃなかったかな?

● 1985年6月発売の『DANCING SHOES』は英語曲ですね。これは聖子さんがアメリカ志向に…

―いや、アメリカ志向は私の考え。私が直感的に聖子はアメリカに向いていると思ったんで、私の勘一つでアメリカでやるって決めたんです。CBS・ソニーの洋楽セクションとも連携してプロジェクトを組んでね。実は、アメリカへ行くのには聖子は大反対で、成田空港でアメリカ行きのフライトまでの待ち時間、聖子とお茶を飲んでいたんだけど、聖子が「若松さん、私なんで今からアメリカへ行かなくちゃならないんですかねぇ?」って言ってたくらいですから。

●なるほど、そうだったんですか…。で、アメリカでのレコーディングはどうだったんでしょう?

―アメリカへ行って、アルバムを1枚作ったんですね。アメリカ側のプロデューサーはフィル・ラーモン。ビリー・ジョエルのプロデューサーでアメリカでは非常に有名な人なんだけれども、私と彼で話し合いながら、曲をセレクトして作っていったんですね。レコーディングしているニューヨークのスタジオに、シンディ・ローパーとかいろんな有名なシンガーが遊びに来るんですけど、ポール・サイモンがジーパン姿でポケットに手を突っ込んで、フィル・ラーモンのところに遊びに来たのには、私も感激してしまいましたね。

結構長い期間ニューヨークにいたものだから、聖子もだんだんアメリカが好きになっちゃって、自分からアメリカに行きたがるように気持ちが変わったんです。

 

■歌詞のタイトルは私が決めた

●話はまた初めの頃に戻ります。ヒット曲連発で聖子さんほど楽曲に恵まれた人はいない、という人もいますが、プロデューサーとして天才的な作家の人達をまとめるにあたって苦労したこととかありましたか?

―いや、苦労を感じたことはほとんどなかったね。むしろ、楽しかったです。才能がある人と仕事をすれば何が楽しいかというと言葉一つで済むこと。 「松本さん、今度は『赤いスイートピー』だからね、タイトルは。」それだけで私のイメージどおり、いやそれ以上の 歌詞ができてしまうんだから。

●えっ?歌詞のタイトルは若松さんが決めていらっしゃったんですか?

―全部ではないですけど、彼女の歌のほとんどのタイトルは私が決めていました。『裸足の季節』、『青い珊瑚礁』、『風は秋色』、『白いパラソル』、『風立ちぬ』、『赤いスイートピー』、『渚のバルコニー』とか…。

●このタイトル名を先に決めたというのは、何か理由があったのですか?

―それはやはり、聖子のイメージをどういう風にしたいっていう基本的な戦略があるわけですから。

●戦略といえば、先日『風立ちぬ』の誕生秘話などがある新聞に掲載され、記事には「文学少女的な、知的なイメージを狙った」と書かれていましたが…

―いや、あれはもともとは、私はフラッと旅するのが好きで、特に軽井沢とか信州が好きでよく行ってたんですよ。蓼科の富士見高原に病院があるんだけれども、堀辰雄はそこに入院してたからね。私は堀辰雄の『風立ちぬ』が大好きだったものだから、そういう文学的なイメージを聖子の歌で実現したかったんですね。

■『赤いスイートピー』誕生

●なるほど…。聖子さんの歌のタイトルは、若松さんの旅好きから生まれたとも言えるわけですね。そしてこのあと作曲に呉田軽穂(ユーミン)を迎えて『赤いスイートピー』が誕生します。

―う−ん、これはね、それまではどちらかというと聖子ファンは男性中心だったものだから、ここらあたりで女性にも好かれるような歌も作りたいな、ということもあったりして、ユーミンに聖子を委ねることにしたんですよ。天才だからね、彼女は。

これもタイトルは、販売していくのがちょうど春の訪れのころだから、私の中で聖子の次のイメージを『赤いスイートピー』の感じって決めたんです。当時赤い色のスイートピーがあるかどうかなんて知らなかったんだけど、このときの私のイメージはもう『赤いスイートピー』しかなかった。

それで先ずはユーミンに会って「このタイトルでいきますから」と伝えると、ユーミンは、ちょうどコンサートのリハーサル中で超忙しい時だったんだけれども、「ハイ、わかりました」って引き受けてくれたんですね。そして、上がってきた曲をもらったんですけど、ちょっとある部分が気になって、そのことをユーミンに伝えたら、それもすぐ直してくれて…。こうして仕上がったのが、今のあの曲なんですよ。

そのメロディーを松本さんに渡して、「松本さん、今度は『赤いスイートピー』よろしくね。」と言って書いてもらう。こんな感じでしたね。だいたいタイトルがイメージとしてあり、次に曲、そして詞、アレンジへと進んでいました。ユーミンの曲の場合は、アレンジは松任谷正隆さん。お宅におじゃまして2時間くらい打ち合わせしただけでバッチリ。そしてあの大ヒット曲が生まれたわけです。狙いどおりいっきに女性ファンが増えましたね。                           

あとほかの作曲家のアレンジなんかは、大村さんに依頼することが多かったのですが、私が外国曲などをパーッと聴いて「大村さん、今度のアレンジはこんな感じで。」と彼にも聴いてもらうわけですよ。そしたら「ハイ、わかりました」って。彼も天才だから、歌詞、メロディー、聖子の声質ってしっかり掴んでいるからいちいち説明しなくてもいい。どういう風に仕上がったら松田聖子の歌が引き立つかもう良くわかっている、ここがスゴイ!これはもう、私の想像を絶するくらい、懐(ふところ)にアイデア満載、遊び心満載。

■天才アレンジャー、大村雅朗を起用

●いま大村さんのお話が出ましたけれども、大村さんを起用したいと思ったキッカケは?

山口百恵さんの歌で『謝肉祭』っていうのがあったんですね。それを私が聴いて、アレンジにしびれたわけですよ。すっごいアレンジだなと思って。そしたら大村雅朗って書いてあって、当時はまだよく知られてなかったんですけどね。ただ大村さんってなかなかいいよねっていう噂は耳にしていた。この歌のアレンジを聴いて、彼のところを訪ねて、「ぜひ聖子の曲のアレンジをやってもらえないですか?」とお願いしたわけです。まぁ、私は音楽理論とはかけ離れたところで仕事をしていましたからね。直感。この自分の“感覚”というものを一番大事にしていた。大村さんを起用しようと思ったのもこの直感でした。

●『天使のウィンク』の、あのイントロからの導入部なんかは…

―そう、『天使のウィンク』のアレンジ、あれは凄かったねぇ。彼はアイデアマンだから、アレンジがほかの人と違ってセオリーどおりじゃなくって、ポーン、ポーンって飛ぶんですよ。それがもう大胆で、斬新。渡辺美里さんの『My Revolution』なんかも凄かったからね〜。アレンジはとっても大事なんですよ。アレンジ次第で曲なんてもう全然違ってくるんです。

●松田聖子さんの黄金時代を語るに欠かせない、名アレンジの数々。その大村雅朗さんですが、1997年に46歳の若さで亡くなりました。

―本当に残念だったね。彼のような天才はなかなか生まれてこないですよ。日本の音楽界にとっても大きな損失じゃなかったかなぁ…。本当に残念…。

■若松宗雄氏がいま注目のJade Yin

●さて、若松さんは、いまJade Yin(ジェイド・イン) に注目していただいているわけですが…

―Jade Yinにもね、彼女の歌を最初聴いたとき、天性の才能を感じましたね。美声なんだけど、それだけじゃなくて、聖子と同じ品性・知性という資質を感じた。あとJade Yinが撮った写真や彼女の描いたデザイン、あれを見たら、いやぁ、この子は大化けするんじゃないかと思いましたよ。

歌っていうのは、理論やテクニックではなくて、その人そのものの品性・知性の魅力なんですよ。それが歌に現れてくるんだから不思議なんです。Jade Yinが歌う『仰げば尊し』なんか素晴らしいねぇ。今までこんな『仰げば尊し』聴いたことがない。

Jade Yinも私がメジャーで第一線の現場を仕切っていたら育てていけるんだけどねぇ。今は、果たしてどうだろう?そういう直感を持った人は非常に少ないんじゃないかな?いたとしても、組織の論理で潰されちゃったりする。その結果いい音楽が生まれにくいという状況が続いているような気がするなぁ…。

今回、Jade Yinがインディーズで制作したアルバムの中から、私がセレクトした曲でミニアルバムを作ったので、これをキッカケに日本の音楽ファンにJade Yinが広く認知されていくと私もうれしいですね。(聞き手:ピュアボイスミュージック 野元拓朗)

■若松宗雄プロフィール

福島県いわき市生まれ。慶応義塾大学英文科卒業後、CBS・ソニーレコード(現、ソニー・ミュージックエンタテインメント)、シーエス・アーティスツ(現ソニー・ミュージックアーティスツ)社長を経て、エスプロ(旧グリーンパーク・ミュージック)社長。

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