<コラム>33年ぶりの再会(後編):時代が移り、環境が変わっても…

小林 晶子    2017年4月11日(火) 13時50分

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実は、今回の訪中団参加が決まった時、33年前の母校訪問があまりにも突飛な発想に思えた。写真は筆者提供。

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実は、今回の訪中団参加が決まった時、33年前の母校訪問があまりにも突飛な発想に思えた。心の中で「絶対に私の知り合いがいるはずがない。知り合いがいない母校を訪ねて何になる?と言うか、現在の留学生担当者に会っても、当時の事は知らないはずだから、共通の話題がない。何の共通点もない人と一体どんな話をするというのか?沈黙が続いて気まずい思いをするだけなのでは?」などなど。色々な思いが頭をよぎった。唯一の解決策は、当時撮った写真を持って行き、「当時の交通大学はこんな風でしたよ」と私が説明すること。そうすれば、きっとその担当者は喜んでくれるに違いない。私は藁にもすがる思いで、当時撮った写真をいくつか選び、アルバムに入れて持って行くことにした。

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北京から上海への移動は高鉄(高速鉄道、日本で言えば新幹線)。上海の高鉄駅・虹橋駅に着いた。後は各自で母校に行く。私以外のほとんどの人は、2人組で母校に移動。交通大学留学生は私1人なので、1人で地下鉄に乗って交通大学駅へ。駅に着くと、中国版地図ナビの案内でほどなく大学正門に到着。中に入った。大きな木が沢山茂る、まるで公園のような感じだった。

さて、ここからが問題だ。留学生弁公室は一体どこにあるのだろう?場所を聞こうと思ったが、ちょうど授業中なのか学生の姿があまり見えない。仕方なく、図書館と書かれた建物(写真1右下参照)に入り、何人かの職員に聞いてみた。ところが、職員たちもあまり分からないらしく、担当者に電話してみろと言う。私が「携帯が無い」と言うと、そこの電話を使ってもいいからと言ってくれた。呉さんに繋がると、どうやら、弁公室はそこから遠いらしく、説明を聞いてもなかなか分からない。呉さんは「近くに来たらまた電話して」と言うが、携帯がないのでどうしようもない。

結局、「先ず、食堂を探し、次に大礼堂を探し、その後に大礼堂の横にある教一楼を探してください。弁公室は教一楼の103号室です」とのことだった。こうして、またあちこちで道や建物を聞きながらやっと呉さんの居場所にたどり着いた。北京から直接来たので、北京用のダウンコートを羽織っていた私は、着いた頃には汗びっしょりだった。

呉さんはなかなか感じの良い女性で、私を歓迎してくれ、顧さんの話をした。そして顧さんを呼びに行ってくれた。果たして、あの顧さんなんだろうか?私がドキドキして待っていると、見覚えのある小柄な男性が入って来た。少し猫背気味で、眼鏡をかけている。当時のままだ。違うのは、ほんの少し中年太りしたところかな。でも、あの時の気さくで親切そうな様子は全然変わっておらず、思わず33年の時間が止まってしまったかのような錯覚を覚えた。

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