怖かった日本人のイメージが一変したワケ?=『校閲ガール』『嵐』の大ファンに―中国人の日本語作文コンクール優勝者

八牧浩行    2017年2月26日(日) 19時0分

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第12回「中国人の日本語作文コンクール」で最優秀賞(日本大使賞)を受賞した蘭州理工大学出身(現・南京大学大学院生)の白宇(パイユイ)さん(23歳)が来日し、Record Chinaのインタビューに応じた。

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日本語を学ぶ中国人を対象とした第12回「中国人の日本語作文コンクール」(日本僑報社・日中交流研究所主催、日本外務省など後援)で最優秀賞(日本大使賞)を受賞した蘭州理工大学出身(現・南京大学大学院生)の白宇(パイユイ)さん(23歳)が来日し、Record Chinaのインタビューに応じた。

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白さんの作文「二人の先生の笑顔が私に大切なことを教えてくれた」では、日本語教師との出会いを通じて日本へのマイナスの印象がプラスに変わった体験が描かれている。今回コンクールには、中国各地から過去最多の5190本の応募があった。(聞き手・八牧浩行

――作文によると、日本語を学ぶことに、最初家族や友人から理解されなかったようですね。

内陸部の安徽省の出身で、実家は農家です。保守的な土地柄で、日本へのイメージはあまり良くありません。

――尖閣諸島をめぐって日中関係が悪化した2012年9月に入学したのですね。

会計学などを勉強したいと思っていましたが、希望していなかった日本語学科しか進学できませんでした。初めは専門を変えることだけを考えていました。母は「どうして日本語なの?」と言っていました。

 

――そんな中で、江里佳先生夫妻に支えられ、勉強を続けるうちに日本語と日本が大好きになったのですね。

それまで日本人には怖いイメージがありました。戦争ドラマでの憎らしい顔を思い浮かべました。ところが江里佳先生に会ってこの考えが変わりました。いつもやさしく教えてくれ、日本への思いがプラスに変わりました。日本人の学友も同じようにやさしく接してくれました。

――昨年秋、進学した南京大学の大学院では何を学んでいるのですか。将来の夢は何ですか。

文学を学び日本語翻訳などについて研究しています。将来新聞やテレビの仕事をし、ジャーナリストになりたいと考えています。日本と中国をつなぐ仕事に就くのが夢です。日本で仕事ができればうれしいです。

――日本の印象はいかがですか。

日本訪問は3回目です。昨年7月に訪日した際には、家族や友人らへのプレゼントの「爆買い」を楽しみました。買い物をすれば日本や日本人の良さを知るきっかけになります。日本人も中国に行き中国の良さを知っていただきたいと思います。

――好きな日本ドラマやタレントはいますか。

最近、日本のドラマが中国で人気です。『校閲ガール』は大好きで、私の専攻にも関係するので観ていました。タレントでは嵐や北川景子のファンです。

◆中国人の日本語作文コンクール最優秀賞『二人の先生の笑顔が私に大切なことを教えてくれた』全文(白宇・作)

大学の専門が決まった日のことは今でも覚えている。私が遠く蘭州まで行って日本語を勉強すると聞いて、友達は皆馬鹿にしたように笑った。両親の「もう一年、浪人して頑張る?」という言葉が、傷だらけの私の心に止めを刺した。

浪人する勇気もなかった私は、入学後、専門を変えることだけに望みを託した。蘭州まで付き添ってくれた母は私の将来を悲観して、帰りの電車で泣き続けたという。2012年、小さな島をめぐって中日関係が最悪となった、その年のことだった。

大学の初日、初めての授業にやってきたのは、なんと日本人の先生だった。それまで日本人と聞いて頭に思い浮かぶのは、戦争ドラマで見たあの憎らしい顔だけだった。ところが、教室にやって来たのは可愛らしい女性で、最初はクラスメートだと思った。教壇に立つと、彼女は知らない言葉で話を始めた。唯一聞き取れたのは「早上好(おはようございます)」だけ。英語と、少しの中国語を黒板に書いて交流した。彼女は最初から最後までずっと笑顔だった。なんだ、怖くないんだ、日本人も。授業の後は自分で黒板まで消して、「また明日ね」と言うと、また微笑(ほほえ)んだ。

その先生は丹波江里佳と言い、ご主人も先生だった。姓が同じなので、江里佳先生、秀夫先生と名前で呼んだ。先生は「子どもみたい」と笑ったが、なんだか親密な感じがして、その呼び方が好きだった。私は、もうちょっと日本語を勉強してもいいかなと思った。

その後、江里佳先生と相互学習を始め、私は日本語、先生は中国語で会話を重ねた。私が大事な試験や大会を控えた時は、先生からたくさんのアドバイスとパワーをもらった。一年が終わる頃、私の成績は学年で一番になっていた。いつの間にか、専門を変えようという気持ちはなくなっていた。

ある日、秀夫先生から呼び出され、江里佳先生が突然帰国することになったと聞かされた。もう、蘭州には戻らない。その瞬間、私は言葉を失い、目からは涙が溢(あふ)れ出した。他人に弱みを見せることが何より嫌いだったはずの私が、何も言えずに、ただ泣き続けた。ただ一人の日本人の前で、ただ一人の日本人のために。

江里佳先生が帰国した後は、秀夫先生と相互学習を続けた。今だから言うと、最初は江里佳先生には誰も代われないと思っていた。秀夫先生は私たちの授業を担当したことがなかったので、冗談を言い合うことも少なかった。やっぱり江里佳先生の方がいい、とこっそり思った。

去年の五月、蘭州で大きなスピーチ大会が行われることになった。地区予選で優勝すれば日本での決勝に行けると聞き、とてもワクワクした。日本で、また江里佳先生に会える! しかし、参加を決めてから大会まで一カ月もなく、まだ原稿もなかった。

思い切って秀夫先生に指導をお願いすると、先生は快く引き受けてくれた。「でも、私が指導する以上は厳しいよ? 『全力を尽くす』、それが唯一の、そして絶対に守ってほしい約束」という秀夫先生に、私はドキドキしながら頷(うなず)いた。

それから毎日、秀夫先生と夜遅くまで練習した。発音から、アクセント、イントネーション、表情、身振り手振りまで、二人で一緒に考えた。大会当日、私の優勝が決まった時、先生は誰よりも嬉(うれ)しそうに微笑んでいた。その笑顔を見た瞬間に気づいた。秀夫先生もまた、かけがえのない存在になっていたのだ。

東京の決勝では全力を尽くしたものの、結局、私が優勝することはなかった。周囲は決勝に進めただけで十分だと言ってくれたが、内心悔しくてたまらなかった。そんな私の性格をよく知る江里佳先生がくれた長い応援メッセージは、私の一生の宝物になった。

思い返すと涙が出てくる。四年間、私を支え続けてくれた先生方。辛い時、苦しい時、私はいつも二人の笑顔を思い出す。すると、また次の一歩を踏み出す勇気が湧いてくる。今年、私は大学院へ進学する。専門は日本語。今なら相手が誰であろうと、私は胸を張って言える。「私の専門は日本語です」と。

<インタビューを終えて>

中国では2万人が日本語を勉強しており、日本への留学なしでしっかりした日本語を話したり書けるようになっている。ジャーナリスト希望の白宇さんは流暢な日本語で日中友好にかける率直な思いを熱く語ってくれた。インタビューを通して、若い世代の交流と相互理解こそが今後の世界平和につながると確信した。

次回17年の「第13回中国人の日本語作文コンクール」は、日本への留学経験のない中国人学生を対象に、5月8日に作文の受け付けが開始される。今年の作文コンクールのテーマは「日本人に伝えたい中国の新しい魅力」「中国の『日本語の日』に私ができること」「忘れられない日本語教師の教え」の3つ。この中からテーマを一つ選べる。

毎年約60の各種受賞作が作品集として日本僑報社(段躍中代表)から出版され、日中両国で大きな反響を呼んでいる。こうした地道な取り組みがさらに拡大するよう期待したい。(八牧)

■筆者プロフィール:八牧浩行

1971年時事通信社入社。 編集局経済部記者、ロンドン特派員、経済部長、常務取締役編集局長等を歴任。この間、財界、大蔵省、日銀キャップを務めたほか、欧州、米国、アフリカ、中東、アジア諸国を取材。英国・サッチャー首相、中国・李鵬首相をはじめ多くの首脳と会見。東京都日中友好協会特任顧問。時事総合研究所客員研究員。著・共著に「中国危機ー巨大化するチャイナリスクに備えよ」「寡占支配」「外国為替ハンドブック」など。趣味はマラソン(フルマラソン12回完走=東京マラソン4回)、ヴァイオリン演奏。

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