<日本で大成功した中国人>中国人民解放軍で大活躍!でも、迷わず日本へ、日中ダンス文化の違いとは?

Record China    2017年1月1日(日) 21時30分

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海外で暮らす中国人はみな自身が出国した日をはっきり覚えている。現在、すでに全日本華僑華人連合会の会長となった顔安も同様である。

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伝記を読むのが好きだ。個人の歴史上の役割は多くの場合、取るに足らないものだとわかる。しかし、無数の個人の伝記からは一人の人間の歴史が往々にして一つのグループの、特に民族の歴史の縮図だということもわかる。数百年間、多くの中国人は遠い海外に渡り、苦労して働き、苦渋の交じる喜びを得て、異国で奮闘し、その土地に根を下ろした。情勢の変化がいかに激しくても、海外華僑華人たちの愛国、報国の心情はずっと変わることはない。彼らは自身の歴史によって、中華民族発展の歴史の重要な一章をうたいあげている。今日に至り、このグループにはまだ社会学者に注目されていないかもしれない、不思議な文化的現象が見られる。それは、海外で暮らす中国人はみな自身が出国した日をはっきり覚えているということだ。現在、すでに全日本華僑華人連合会の会長となった顔安も同様である。出国した日を聞くと、すらすらと1988年4月1日だと答えた。

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別れ―愛する舞台を離れて

その日、顔安は大勢の人に流されて成田空港の正面玄関を出た。保証人の顔を見つけ、不安だった心は少し落ち着いた。これから新しい国土に足を踏み出し、人生の新しい幕を開くのだ。これは乗り掛かった船、戻る道のない果てしない旅だ。その夜、顔安は赤坂の全日空ホテルに泊まったが、どういうわけか眠ることはできなかった。窓辺に座り、高速道路上のまばゆい光の帯のような車の流れを上から見下ろし、まるで人間の血液が血管の中をほとばしるようだと感じた。彼が目にしたのは国際的な大都市の活力と反映だけではなかった。さらに感じたのは刺激、そしてある種の格差だった。

日本に来る前、顔安は中国人民解放軍総政治部歌舞団でちょうど10年のキャリアを積んでいた。顔安は1979年3月に歌舞団に入団し、1カ月後には硝煙の漂うベトナム国境に慰問公演に向かった。彼は中央慰問団とともに一つ一つの師団を慰問し、毎日違う場所に赴き戦地で、塹壕で、パフォーマンスを披露した。はじめて戦場に出た時、彼は国のための献身を見て、血に染まった姿を見て、激しい感情が湧き上がり、芸術のために献身しようという信念をさらに強く持つようになった。

1986年5月、顔安が出演した「兵士行進曲」が全軍舞踊コンクールで1位を獲得した。10月、彼の出演した「海燕」がまた全国舞踊コンクール1位となった。当時、全国的なコンクールは少なく、数年に1度程度であり、加えてこれらのコンクールは舞踊のジャンル別になっておらず、受賞の価値は非常に高い。1位を獲得した者は国務院芸術類終身手当を支給される。最高の芸術賞を獲得した後、当時の歌舞団の団支部書記をしていた顔安は、人生に対する新しい考え方を持つようになった。一つには、すでに中国最高レベルの歌舞団に10年いて、全軍、全国で最高の賞を取った自分は仕事のピークに達したのではないか。もう一つはダンスは一生の仕事とはいえない、舞台に別れを告げる時ではないかということだ。一人の男として、彼はさらに大きな挑戦をしてみるべきで、人生にもう一つの輝きを作り出そうと考えた。暗い中、運命によって導かれるように、彼がまさに舞台から去る準備をしていた時、日本に行くチャンスが現れた。彼はためらうことなく行くことを決めたのである。

旅立つ前の日、彼は毎日練習をした舞台を訪れた。18歳から28歳までの10年間の青春と成長のすべてが、この舞台の床板一枚一枚の隙間にしみ込んでいる。深夜11時、顔安は一番好きな作品を静かに踊った。踊っていても、四方から湧き上がる拍手は聞こえない。涙が止まらなかった。

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