「日本人は怖い、日本人は悪者だ」=あるドラマを見てその考えが変わってきた―中国人女性

日本僑報社    2016年9月17日(土) 7時0分

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周囲の環境によって、幼いころから日本人に良くない印象を抱きながら育つ中国人は少なくない。そのうちの一人、張桐赫さんは、ドラマと日本人がきっかけで印象が変わったようだ。資料写真。

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周囲の環境によって、幼いころから日本人に良くない印象を抱きながら育つ中国人は少なくない。湘潭大学外国語学院で日本語教師として働く張桐赫さんもそのうちの一人。しかし、張さんはある日本のドラマと、出会った日本人がきっかけで、日本人に対する印象が変わったようだ。

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祖父は軍人だった。若い時に日中戦争に参加し、その辛い歴史を見てきた。体に戦争の傷跡が今でも残っている。祖父はあまり昔のことを話したがらなかったが、彼の経歴と傷跡は子供の私にとって誇りのようなものであり、よく友達の前で祖父の偉大さをひけらかした。

その頃、子供の間で「抓日本鬼子」(※日本鬼子を捕まえる。「鬼子」は日本人の蔑称)というゲームが流行っており、私たちの幼い心には「日本人は怖い、日本人は悪者だ」と植付けられていた。少し大きくなっても、私はやはり多くの中国人と同じように、日本人に対してあまり好感を持てなかった。

ある日、「おしん」という人気ドラマを見て、ちょっと考えが変わってきた。とても印象深かったのは脱走兵の俊平のことだった。戦争と兵隊から逃げ出しても戦争が残した苦痛は一生消えない。彼が繰り返して詠んだ与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」も多くの中国人視聴者の心を打った。「戦争の傷跡は栄誉どころか、まったく愚かなことだ。日本の国民も戦争を嫌がっていた」と初めて知らされたのだ。

大学時代、偶然に日本語専攻を選んだ。何人かの日本人と出会ううちに日本人をもっと理解するようになった。

1年生の時、発音指導をしてくださったのは松田先生だった。松田先生は60歳ぐらいで、背があまり高くなく、ちょっと太っていたが、いつもにこにこしていた。日本語の発音は私たち初心者にとってとても難しくて、授業の時間だけでは足りなかったので、松田先生は夕食後、私たちを家に呼び、一人ずつ練習させた。各人の間違いを丁寧に直す、本当にまじめな先生だった。週末になると、先生の奥様はカレーライスを作ってくれて毎回ご馳走になった。すごくおいしかった!そのカレーの味は今でも忘れられない。

3年生の時、私たちに精読を教えてくれた倉田先生は30歳ぐらいで、ほっそりした体つき、髪が短く、とても元気な女性だった。倉田先生もまじめな方で、宿題を見る時にはどんなに小さいミスでも見落とさなかった。それに、先生の意見もちゃんと書いてくれた。ご主人が先生に会いに来た時、先生は私たちの授業を準備するために、夜の2時までも仕事を続けたと偶然知った。本当にびっくりした。目の前にいろいろなことが浮かんできた。先生の見事な講義、先生の関心を持つ目つき、先生の優しい笑顔、先生の目立ってきた白髪…。その時、将来私も倉田先生のような先生になろうと決めた。

私には他にも日本の友達がたくさんいる。その中で、実はまだ会ったことがない友人もいる。大学3年の時に青山さんという日本のかわいい女の子とペンフレンドになった。同じ年、同じ性格、同じ興味の私たちは国という枠を超えて、いい友達になった。青山さんは日本の文化とか、面白いことなどをいろいろ紹介してくれた。ひな祭りのとき、家の雛人形の写真を送ってくれた。桜が咲いたころには、桜の写真もたくさん撮って送ってくれた。日本の人気のある本も買ってくれた。私も中国の刺繍をプレゼントとして青山さんに送った。

いろいろな日本人と出会うと同時に、日本人をもっと理解するようになった。優しさ、思いやり、勤勉、まじめさ…。これらのことは私の人生にも影響を与えてきたのだ。今はすでに日本語教師になった私は、私のたくさんの日本の友人たちに言いたい。「ありがとう!これからは、私が後輩の皆さんに色々と教える番だ!」。(編集/北田

※本文は、第四回中国人の日本語作文コンクール受賞作品集「私の知っている日本人」(段躍中編、日本僑報社、2008年)より、張桐赫さん(湘潭大学外国語学院)の作品「私が出会った日本人たち」を編集したものです。文中の表現は基本的に原文のまま記載しています。なお、作文は日本僑報社の許可を得て掲載しています。

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