王毅・中国外相の「2面性」!駐日大使時代に明かした意外な本音とは?=透ける中国の「特殊事情」

八牧浩行    2016年8月25日(木) 6時40分

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中国の王毅外相が、外相就任後初めて日本を訪問した。2008年まで駐日大使をつとめた親日派だが、日中が微妙な関係にあるためか、日中韓外相会談でも表情が硬かった。王毅外相の経歴と行動をフォローすれば、中国特有の複雑な事情が浮かび上がる。

2016年8月24日、中国の王毅外交部長(外相)が、2013年3月の外相就任後、初めて日本を訪問した。2008年まで駐日大使をつとめた親日派だが、日中が微妙な関係にあるためか、記者会見でも表情が硬かった。王毅外相の経歴と行動をフォローすれば、中国特有の複雑な事情が浮かび上がる。

今月に入り中国公船が尖閣諸島の領海に侵入し、日本政府が抗議を繰り返している。両国関係の冷え込みが長期化する状況で、日本にいい顔をすれば、国内で批判を浴びることも覚悟しなければならない…。「元駐日大使=日本通」としての深謀遠慮があるのだろう。

中国共産党内部や、軍部内には反日機運がいまだ消えていない。王毅氏の経歴と行動は、「日本びいき」と指弾されかねない。日本がらみの記者会見など表舞台での表情の硬さや外相就任後3年以上も訪日しなかったのはそのためと見る向きもある。

1953年生まれの王毅氏は、高校卒業後の1969年から8年間、黒竜江省で「下放」を経験する。その後、25歳で北京第二外国語学院に入学し、日本語を専門に学んだ。29歳で中国外交部入りした苦労人だ。王毅氏は外交部で日本部門を中心に頭角を現し、2004年9月から2007年9月21日まで駐日中国大使を務めた。

筆者はこの間に度々、個人的に取材したことがあるが、極めてタフでアグレッシブだった。「日本部門は(外交部で)長らく不遇だったが、ようやく活躍できるようになった」と明かし、「日中関係改善へ尽力したい」というのが口癖だった。

赴任した2004年当時は、小泉純一郎首相の全盛時代。首相の靖国神社参拝問題を抱え、日中間には微妙な問題が影を落としていた。

「一人さえ辞めれば後はうまくいく」と、王毅氏は筆者に話したことがある。「一人は誰?」と訊いたら、小泉首相のことだった。用意周到に様々な情報を調べ上げていた。

日本語、英語が堪能で、持ち前のフットワークを生かしていた。様々なパーティやシンポジウムで出会ったが、陽気に話しかけ、日本の政財言論界にもネットワークを広げていた。日本人の「王毅ファン」も多かったように思う。

2006年9月、小泉首相が任期満了で退任。後継の安倍普三首相は、小泉氏の靖国参拝問題のために途絶えていた、中国への首相の訪問を同年10月に実現。首相就任後の初外遊となり、北京で胡錦濤国家主席と会談。戦略的互恵関係構築で合意した。安倍首相の中国訪問や合意文書交渉などでは、駐日大使として奔走。安倍首相や政財界首脳クラスとも良好な関係を築き上げた。 

 

王毅氏の趣味はテニスで、東京・麻布の中国大使館の正門を入った右奥にテニスコートがある。大使時代には在京外交団などとよくテニスを楽しんでいた。日本を含む先進・途上の各国と協調する姿勢は明白だった。

中国は、9月4〜5日に杭州で開催する20カ国・地域(G20)首脳会議を控え、対話重視の姿勢も示している。かつて「日本が好きだ」と言っていた王毅外相が、日中関係の改善に向け、持ち前の明るさと敏腕ぶりを発揮するよう望みたい。(八牧浩行

■筆者プロフィール:八牧浩行

1971年時事通信社入社。 編集局経済部記者、ロンドン特派員、経済部長、常務取締役編集局長等を歴任。この間、財界、大蔵省、日銀キャップを務めたほか、欧州、米国、アフリカ、中東、アジア諸国を取材。英国・サッチャー首相、中国・李鵬首相をはじめ多くの首脳と会見。東京都日中友好協会特任顧問。時事総合研究所客員研究員。著・共著に「中国危機ー巨大化するチャイナリスクに備えよ」「寡占支配」「外国為替ハンドブック」など。趣味はマラソン(フルマラソン12回完走=東京マラソン4回)、ヴァイオリン演奏。

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