「両親に捨てられてよかった」米国へ養子として渡った中国人少女の心の声―香港メディア

Record China    2015年10月4日(日) 23時40分

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30日、中国の農村に生まれ、女の子だという理由から捨てられ、米国人の幼女としてシアトルに渡っていったある少女の声を、米紙ワシントン・ポストが取材した。1990年以来、中国から養子として欧米の家庭にもらわれていった子どもは10万人いると言われている。写真は中国の孤児院。

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2015年9月30日、中国の農村に生まれ、女の子だという理由から捨てられ、米国人の幼女としてシアトルに渡っていったある少女の声を、米紙ワシントン・ポストが取材した。1990年以来、中国から養子として欧米の家庭にもらわれていった子どもは10万人いると言われている。

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1993年に中国東部・浙江省の農村に生まれ、現在はシアトル在住の22歳女性。幼いころに養女として渡米した。本来は中国人だが、中国語もほとんど話せず、読み書きもできない。彼女は弟が生まれた時に、「不要の子ども」になった。一家の後継ぎにはなれず、大人になれば嫁として外に出て行く女の子は、農村の家庭にとっては負担でしかないのだ。弟は第一子として戸籍に載ることになり、もともと出生届けの出ていなかった彼女は、のちに孤児院送りとなった。

1990年以来、彼女のように欧米の家庭にもらわれていった養子は10万人いるといわれている。その大多数は女児だ。これは、中国の伝統的な性差別の観念と、一人っ子政策の副産物である。彼女らのほとんどは、生みの両親や出身家庭について一切の情報を知らされず、また自分を捨てたのが誰なのか、捨てられた理由は何だったのかも知らないままだ。前出の女性はある偶然の経緯で、実の両親との対面を果たすことができた。

女性が7歳だった2000年、彼女の育ての両親は、3人目の養女となる女児をひきとるために中国へ渡った。そして、女性を引き取ったのと同じ孤児院に行き、その時、奇跡的にも女性の生みの親を知る機会に恵まれた。女性の記憶にある限り、彼女が実の両親と初めての対面を果たしたは12歳の時。生みの母は大粒の涙を流して彼女をきつく抱きしめた。しかし、言葉が通じないため、何が起こっているのかは女性にはよく理解できなかった。

女性は簡単な中国語を学んだ後、18歳で再び中国に渡り、実の家族と6週間を過ごした。そこで自分の出生の経緯を断片的に知った。しかし家族の誰も、女性の正確な誕生日を覚えていなかった。女性の出生名はモンティン(夢停)。「夢の終わり」という意味だった。つまり、彼女は誕生とともに家族を失望させた存在だったのだ。当時、家庭では祖母が絶対の権力を持っていた。そしてその祖母の命令で女性の出生届は出されず、女性の実の母は男児が生まれるまで何度でも子づくりに挑むことになった。それは、当時の農村部では珍しいことではなかったという。

女性は生まれてから渡米するまでの数年間、屋根裏で物音をたてずに過ごすことを命じられ、外出するときは布袋に入れられて外に出たという。もし、“闇っ子”がいることが発覚すれば、政府によって自宅は潰され食糧は没収され、一家は破滅まで追いやられるかもしれない。そんな時代だった。そんな努力もむなしく、彼女の存在は当局に見つかり、孤児院送りとなった。これがきっかけで実の両親は不仲となり、最終的には離婚したという。

内装もされず、むき出しのままの粗末な住まい。事業に失敗して肉体労働にいそしむ実の父。子宮頸がんを患いながら、十分な治療費が出せずにいる実の母。両親の離婚に傷つき、ゲームの世界に逃げる実の弟。ろくに勉強もせずに引きこもってばかりの彼に、母親は「そんなに言うことをきかないなら、お姉ちゃんを呼び戻してお姉ちゃんと一緒に住む。お前なんかいらない」と怒鳴りつけていた。彼らの生活を見ていて、女性は自身の不幸な出生がむしろ幸運だったとすら思った。捨てられていなければ、彼女もこのような暮らしをすることになっていただろう。

女性は現在、ワシントン大学を卒業した後、精神疾患や行動学の研究所で助手をしながら、人間工学の博士課程に在学中だという。(翻訳・編集/愛玉)

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