<「尖閣」巡る日中攻防(上)>「上陸」合戦と「国有化」で暗転=領土争いが「戦争の引き金」に

八牧浩行    2022年3月19日(土) 7時20分

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人類の歴史上領土が原因の戦争は何回もある。というより、ほとんどの戦争が領土をめぐる諍いが発端だ。2012年夏、沖縄の最西端に位置する沖縄県尖閣諸島周辺は揺れ動いた。写真は中国釣魚島を守る会の宣伝資料。

2012年夏、沖縄の最西端に位置する沖縄県尖閣諸島周辺は揺れ動いた。終戦記念日の8月15日、香港の活動家5人が尖閣諸島の魚釣島に上陸、中国や台湾の国旗を立て、逮捕された。中国各地では反日デモが相次ぎ、暴徒化した群衆が日本料理店や日本車を壊したり、日の丸を燃やしたりする事件も起きた。

8月19日には、日本の地方議員らも政府の許可を得ずに尖閣諸島の魚釣島に上陸し、日章旗を立てるなどした。これに中国側が反発。丹羽宇一郎駐中国大使(以下肩書はすべて当時のもの)の乗った公用車が同27日、北京市北東部で男に襲われ、バンパーに立ててあった日の丸国旗が奪われた。尖閣諸島の領有権争いをめぐり反日感情を抱いた中国人による犯行だった。

2012年は日中国交正常化40周年の記念すべき年だった。中国での記念行事の中には、混乱への懸念から中止に追い込まれるケースも続出。尖閣をめぐる日中間の対立は泥沼化した。

さらに日本政府が地権者から尖閣諸島の土地を購入、「国有化」したことで火がついた。この決定に中国は一斉に猛反発、胡錦濤国家主席はもちろん、親日派とみなされている温家宝首相までもが「われわれはかつて侵略を受け、屈辱を味わった。中国政府と国民は主権と尊厳を誰よりも大事にしている。尖閣諸島は中国の固有領土であり、たとえどのような困難があろうとも、その主張に関して半歩たりとも譲ることはない」と最大級の表現で非難した。

中国各地で「国有化」に対する大規模抗議デモが発生、暴徒化し、日系の工場やスーパー、販売店が襲われた。中国国営放送CCTVが「尖閣国有化」の直後に行った中国国内世論調査によると、「対抗措置を取るべきだ」との意見は89.7%に上った。

◆「国有化」―パンドラの箱を開けた

そもそもの発端は石原慎太郎東京都知事が2012年4月、米国の保守系シンクタンク会合で尖閣諸島購入計画を突如ぶち上げたことである。都知事に促され野田政権は「国有化」に舵を切った。国有化の大前提としたのは「良好な日中関係の維持」である。

ところが、その後の展開は中国側が猛反発、反日デモに火を付け、中国各地で暴動が起き、「日中関係最大の危機」を招いた。結果的に国有化が「パンドラの箱を開けた」格好となってしまったのである。明らかにボタンの掛け違いがあった。

「国有化」と良好な日中関係の維持が両立しなければ、尖閣問題はさらにこじれてしまう。重要なポイントは、中国が国有化をどうしても容認できなかったことだ。外務省や中国専門家の中には「石原都知事に購入させるより国有化の方が中国は受け入れやすい」と考える向きもあったが、私有が認められていない中国では「国有化」は単なる所有権の移転ではなく重要な意味を持つ。甘かったと言わざるを得ない。

「島を購入するという問題は中国国民に強い憤りをもたらした。両国関係の障害となっている」「一部の人の思惑通りに進めば、釣魚島問題は制御不能になり、平和と安定を取り戻すことができなくなる」―。中国の対日外交を統括する元外交官、唐家璇中日友好協会会長は八月二九日に北京で開かれた日中関係のシンポジウムで親日派の彼としては異例の激しさで警告した。

◆胡錦濤の警告を無視した野田首相

野田佳彦首相は9月9日、ロシア・ウラジオストクで開かれたAPEC首脳会議の会場で中国の胡錦濤国家主席と非公式に会談した際、胡主席が「国有化は絶対許さない。事態の悪化を招く」と国有化を見送るよう強く要求した。にもかかわらず、その2日後の9月11日、あっさりと閣議決定してしまった。これには中国側がメンツを潰されたと激怒、抗議デモ容認につながってしまった。

山口壮外務副大臣らは慎重な対応を進言したが、野田首相ら官邸が押し切った。メンツを重んじる国を相手にしているだけに、長い時間をかけ、事情を説明すべきだった。石原都知事からの強いプレッシャーがあったといわれているが、国家元首の要請に対し、もっと時間をかけ、あらゆる外交ルートを駆使した「説明」が必要だった。あまりに拙速過ぎたと言わざるを得ない。

山口壮外務副大臣は尖閣国有化の直後の13日、「外相や首相のレベルでもっと(中国側に)説明をしたかった。所有権を国に移す処理が、都知事が買われるより良いと、よく説明した方が物事はスムーズにいった」と悔やんだが、後の祭りと言うほかなかった。

◆歴史問題に関わる敏感なテーマ

創価大学(八王子)の第一期留学生で、親日派の程永華駐日大使は「日本政府の違法な島購入は、中国人民の憤りを引き起こしている。事態を放っておけば、両国の各分野の交流、協力がさらに大きな打撃を受ける」と異例の激しい口調で日本政府の対応を厳しく批判。その上で、領有権問題を「棚上げ」した過去の日中の合意に立ち返り、「領土紛争を交渉で解決する軌道に戻る」ことの必要性を訴えた。程大使は「両国民の利益に合致しない」と指摘。尖閣問題は「中国の領土主権に関わるだけでなく、歴史問題に関わり、非常に敏感なテーマだ」との認識を強調した。

国有化方針の公表後、中国の新聞各紙は勇ましい主張を展開。中国共産党の機関紙、人民日報やその系列国際情報紙・環球時報は国有化を特に激しく批判した。日中両国が「固有の領土」という立場だけを主張して挑発的な言動や行動を繰り返せば相手国の感情を逆なでし、亀裂を拡大するだけである。どの国でも、偏狭なナショナリズムは繰り返し報道されることによって一気に沸騰しコントロールがきかなくなる。軍事的緊張から戦争へエスカレートしてしまう恐れもある。

人類の歴史上領土が原因の戦争は何回もある。というより、ほとんどの戦争が領土をめぐる諍いが発端だ。1996年に中ソ国境のウスリー川上にある珍宝島をめぐって軍事衝突した。たかだか長さ2キロ、幅0.5キロの経済的価値がほとんどない中州である。発端は国境部隊同士の発砲事件。双方が相手が先に挑発したと非難、双方合わせて70人以上の死者を出した。この争い、2004年に胡錦濤中国国家主席とプーチンロシア大統領が北京で、両国の国境問題の決着を宣言。ロシアが大ウスリー島の半分を中国に引き渡すことなどで、全長4300キロもの長い国境線を画定させ、終止符を打った。

日本の外交官として多くの国境紛争を見てきた孫崎亨・元外務省国際情報局長は「外敵を口実に穏健派を排除するのは世界の歴史でしばしばみられる。国境紛争は内政の動向と関連し、その時には、この緊張で誰の立場が強くなるか、その人物が結局は緊張を煽っていないか見ることが重要になる。多くの国で国境紛争を緊張させることによって国内的な基盤を強化しようとする人物が現れる。そして不幸な時には戦争となる」と警告する。

特に不人気な政治家は、有権者への「受け」を狙って、大衆を煽る過激な言動を繰り返しがち。相手国との融和を探ろうとすると「弱腰」「軟弱」と批判されることが多く、政治家はどうしても大衆ポピュリズムに引きずられる。

◆「尖閣」に酷似 フォークランド紛争の悲劇

領土紛争の典型は一九八六年のフォークランド紛争だ。英国とアルゼンチンが南アメリカ大陸の最南端近くの大西洋上に浮かぶフォークランド(アルゼンチン名=マルビナス)諸島をめぐって争ったもの。フォークランドも、もともと帰属をめぐって両国の主張が割れていたところだ。

このフォークランドは英国人が1592年に見つけたと主張し、対立していた。スペイン人やオランダ人が発見したとの説もあるが、実際に島を誰が最初に見つけたのかは全く不明。国の成立より先に同諸島は存在しており、この論争を決着させるのはきわめて困難である。フォークランドはこの領土問題は19世紀に世界の覇権を握った大英帝国の艦隊が実力で島を奪い取ってからは沈静化し、第一次、第二次世界大戦もあってほとんど忘れ去られた格好となっていた。

大戦終結後、アルゼンチンが国連を通してこの領土紛争の平和的解決を迫った。英国は戦略的価値が少ないこの島を条件付で主権委譲するような譲歩案を示した。アルゼンチンはその条件に反発、無条件の主権移譲を主張し、両者の主張は平行線をたどった。

この膠着状態を一変させたのが、両国の政権交代。1981年、アルゼンチンは陸軍司令官のレオポルド・ガルチェリが大統領に就任し、イギリスでは超タカ派「鉄の女」、マーガレット・サッチャーが首相に就任した。ガルチェリは軍事政権を樹立し、フォークランド諸島を奪回することに血道を注いだ。一方、サッチャーは就任直後、あっさり条件付委譲案を撤回してしまった。

ガルチェリ政権は、1982年3月に突然最後通牒を突きつけ宣戦布告、4月に侵攻した。アルゼンチン海軍は空母「ヴィンテシンコ・デ・マヨ」、駆逐艦、巡洋艦7隻、兵員5000人によって一瞬にしてフォークランド諸島を占領した。

これに対し英国のサッチャー政権は「毅然たる武力対決」を決定し、即時フォークランド近海を戦闘地点として封鎖。イギリス海軍の原子力潜水艦を初めて実戦に投入した戦争となった。英海軍は、空母「ハーミス」「インビンシブル」をはじめ40隻にも及ぶ大機動部隊を派遣した。

◆「戦争死傷者1500人」踏み台 甦ったサッチャー 

この激しい戦闘によって両軍ともに1500人近い死傷者を出したが、原子力潜水艦やミサイルなど英国軍の威力の前にアルゼンチン海軍は敗退を余儀なくされ、開戦3カ月後の6月14日、降伏した。第二次大戦後、英国とアルゼンチンという主要国が争い、艦船、潜水艦、ミサイルなど先端兵器を使用した初めての「惨劇」となった。領土をめぐる歴史的認識の違いがいずれ戦争になるという好例であり、振り返れば対立の構図は「尖閣諸島をめぐる紛争」に酷似している。

フォークランド紛争が勃発した1982年は、サッチャー首相にとって就任3年目。「小さな政府」を掲げ、労働党政権の「揺籠から墓場まで」に象徴される手厚い福祉政策の大幅見直しや国鉄、航空、石炭、電力、水道など国有企業の民営化を推進したが、いずれも抵抗が強く困難を極めた。長期ストライキも頻発し、英国経済の極端な低迷もあって支持率が急落。「サッチャーは次の選挙では勝てない」と言われていた。

最初アルゼンチンのフォークランド侵攻が伝えられた際、英国民の多くは「地球の裏側まで軍隊を派遣する必要はない」という意見だった。野党労働党や労働組合も奪還することに反対だった。新聞も「地球の裏側まで軍隊を派遣して、島に上陸すれば多くの若い命を失う」との論調だった。

これにサッチャーが「領土の侵害だ」と異を唱えた。「人命に代えてでも我が英国領土を守らなければならない。なぜならば国際法が力の行使に打ち勝たねばならないからである」この議会での演説が、世論を動かした。開戦に反対する閣僚たちに向かって「この内閣に男は一人しかいないのですか?」と言い放った。

もともと、英国人は世界に冠たる大英帝国を築き、世界の覇権を握ったことがあり誇り高い国柄。大きな戦争では負けたことがなく、特に海軍には愛着を抱いている。あれよあれよという間にサッチャーのナショナリズムが浸透。戦争に消極的だった国民は熱狂的支持に転じた。労働党など反対勢力も最後は容認せざるを得なかった。

強硬な手段でフォークランド奪還に成功したサッチャー首相は、英国民は熱狂的に支持された。戦争終結後「我々は決して後戻りしないのです」と力強く宣言、低迷していた支持率は73%に跳ね上がった。

この戦争、両国の若者兵士が合わせて1000人近くが犠牲になり多くの資金が投入された。開戦以来40年になるが、なお抜本的な解決を見ていない。欧州でサッチャーは「戦争扇動人」と批判されている。

<(下)につづく>

■筆者プロフィール:八牧浩行

1971年時事通信社入社。 編集局経済部記者、ロンドン特派員、経済部長、常務取締役編集局長等を歴任。この間、財界、大蔵省、日銀キャップを務めたほか、欧州、米国、アフリカ、中東、アジア諸国を取材。英国・サッチャー首相、中国・李鵬首相をはじめ多くの首脳と会見。東京都日中友好協会特任顧問。時事総合研究所客員研究員。著・共著に「中国危機ー巨大化するチャイナリスクに備えよ」「寡占支配」「外国為替ハンドブック」など。趣味はマラソン(フルマラソン12回完走=東京マラソン4回)、ヴァイオリン演奏。

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