ハンセン病蔑視が消えるのを夢見て=原田燎太郎さんの10年―中国メディア

Record China    2013年8月2日(金) 23時57分

拡大

1日、早稲田大学を卒業した原田燎太郎さんは過去10年間にわたり、中国・華南地区の数十カ所の「ハンセン病村」を訪問した。写真は原田燎太郎さん。

2013年8月1日、早稲田大学を卒業した原田燎太郎さんは過去10年間にわたり、中国・華南地区の数十カ所の「ハンセン病村」を訪問した。彼の行動と影響により、1万人以上の中国の若者もハンセン病リハビリ者のもとに駆け寄り、彼らの生活条件の改善に尽くした。関心、慰め、そして平等の尊厳を携えて。新華網が伝えた。

原田さんが中国でボランティア活動をはじめたのは2002年。「当時は記者になり、社会から蔑視を消したかった。自分自身に蔑視の心がないか試すため、日韓ボランティアグループのキャンプに応募し、初めて中国のハンセン病リハビリ村を訪れた」と語る。

初めての中国、ましてハンセン病リハビリ者と自然に握手を交わしたとき、それほど永く中国に留まるとは想ってもいなかった。しかしハンセン病村に滞在中、手足に障がいがあり、顔面が変形したリハビリ者たちを目前に、彼らが苦難の人生と真摯に闘い、達観し、その楽天的発想は、異国の若者の魂をふかく揺さぶった。彼は村に留まり、彼らにできることを考えた。

同年末、原田さんはボランティアワークキャンプ責任者として広東省のハンセン病リハビリ村で活躍、中国でボランティア募集をはじめた。大学キャンパスで初めて募集会を催した際、学生達はまさに「一目散」に逃げ去った。外国語が堪能な学生ひとりだけ残り、通訳を申し出た。

原田さんは「学生たちを責めることはできなかった。当時は中国語ができなかった。英語もあまり話せない。自分の意思がまったく明確に表現できなかった。集まった中国の学生たちに、一緒にハンセン病村に行ってトイレを作りましょう、と言った。きっとおかしかったんだろうね」語った。

幸いにも、難関は一度だけだった。その後の募集活動で、原田さんは反響がより熱烈になるのを感じた。2003年8月、初めての中国ボランティアがワークキャンプに参加した。2004年1年、広東、広西、雲南の3省・自治区でのキャンプは13回を数えた。同年8月、原田さんが事務局長となる「家(JIA:ジア)」ワークキャンプボランティア協会が広州で誕生した。

2012年末までに「家」の提唱のもと、延べ約1万1400人のボランティアが広東、広西、湖南、湖北、海南の5省・自治区で、ハンセン病リハビリ村61カ所、山間学校19カ所で延べ522回のワークキャンプが営まれた。うち9割以上は中国のボランティアだった。

多くのハンセン病リハビリ村は長期にわたり世間と隔絶されている。村民は自給自足で、外界との往来はほとんどない。大学生たちは村に入り、お年寄りの手を引き、無言実行をつづけた。周りの社会から蔑視が消え始め、リハビリ者を快く受け入れるようになった。中国でのボランティアとして、原田さんは志を同じくするパートナーのみならず、愛情をも得た。2005年、彼は最も早くキャンプに参加した中国のボランティア、蔡潔珊(ツァイ・ジエシャン)さんと結ばれた。披露宴は広東省潮州市の嶺後ハンセン病リハビリ村で催された。

結婚して子どもを授かり、中国に根付いた原田さんは、自分がもう日本に定住することはないことを知っている。むしろ、「家」の長期的発展を考えている。2012年、公益慈善組織を含む広州市の社会組織として、「家」事務局は正式にNGOとして民政登録された。

ハンセン病は現在、中国では基本的にすでに消えた。リハビリ者らは高齢化しつつあり、亡くなる人も相次いでいる。「初めて嶺後村に来た頃、14人のリハビリ者の方がいらっしゃったが、いまでは4人だけだ」と原田さん。遠くない将来、ハンセン病村は中国から消える可能性があるため、「家」ワークキャンプも山間学校に活動範囲を広げるつもりだ。

「ハンセン病村がなくなっても、『家』は堅持する。自分はここに留まる。より多くの若者がワークキャンプに参加し、ボランティア活動の中で成長する姿を見届けてゆきたいから」と語った。(提供/人民網日本語版・翻訳/ HT・編集/武藤)

この記事のコメントを見る

ピックアップ



   

we`re

RecordChina

お問い合わせ

Record China・記事へのご意見・お問い合わせはこちら

お問い合わせ

業務提携

Record Chinaへの業務提携に関するお問い合わせはこちら

業務提携