<コラム>チャップリンも見た、上海外灘に残る日本国総領事館跡

配信日時:2018年4月4日(水) 0時30分
チャップリンも見た、上海外灘に残る日本国総領事館跡
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「上海市外灘(ワイタン)にある黄浦飯店が日本総領事館跡なのですか」と上海駐在の方々から質問を受けた。写真は筆者提供。
「上海市外灘(ワイタン)にある黄浦飯店が日本総領事館跡なのですか」と上海駐在の方々から質問を受けた。上海にあった日本租界地(正確には欧米各国を含めた共同租界地)については、多くの資料があるのでご参考頂きたい。最近、再開発という名目で昔の租界地の面影がなくなり、高層建築群の中に古い日本家屋や赤レンガ、そして日本人学校が徐々に消え行く状況だ。上海には5万人近い日本人が駐在し、多くの日本人観光客が訪問する。外灘の北側に戦前10万人の日本人が住み、そこに古き良き日本が残っていた。

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上海の歴史は極めて新しく、アヘン戦争のあと1842年の南京条約によって当時漁村に過ぎなかった港を欧米列国に開港したことから始まる。もちろん春秋戦国時代からの歴史もあるが、この2400万人が住む大都会が誕生するきっかけは1842年であり、まだ175年の歴史である。

1930年代の上海の地図を見ると、中央部東西に共同租界、その南にフランス租界、北側の閘北や南側の城内、南市は中国側の上海市。「日本租界」というのは存在せず、共同租界の虹口地区(日本郵船埠頭のあたり)から閘北の新公園にかけて日本人住民の多かった地区を、勝手にそう呼んだ。地図中央に上海競馬場があるが、これは現在人民広場になっている(写真1)。当時の上海の玄関口は1987年まであった上海北駅で、現在の上海駅の東にあった。今の地下鉄3号線沿いである。1909年に上海駅として開業、1916年に上海北駅と改名、駅舎は4階建て洋風建築であったが、1937年日中戦争時に日本軍により空爆され、その後1950年に再建、現在は鉄路博物館となっている。現在の上海駅は当時の操車場跡地であった。

黄浦江が南から流れ、ちょうど東に向きを変える付近に蘇州河がある。その河を渡る外白渡橋(橋の左岸の洋風建築物が英国領事館跡:写真2)を過ぎると交差点がある。正面右にチャップリン他が泊まったアスターホテル(浦江飯店)、正面左が高級マンションだったブロードウエイマンション(現上海大厦)である。この黄浦路を右に行くとすぐにロシア領事館があり、80年前はソ連領事館である。その横にドイツ領事館があったが今は広場になっている。その横が米国領事館(現海鴎飯店)で、その東横に赤レンガの日本国総領事館(紅楼)が現存する(写真3)。現在は海軍関係の施設になって内部には入れないが、その北が日本総領事館新館(灰楼)であり、連合国救済総署として使われ、現在もホテルとして利用(現在外国人は宿泊不可)できる黄浦飯店(黄浦路106号)となった(写真4)。正式な日本国総領事館跡は黄浦飯店の裏手にある赤レンガ建屋の方である。

(写真5)は、総領事館の東にあった日本郵船埠頭(虹口碼頭)である。奥に見えるのが日本国総領事館で、左上が絵葉書に残る当時の姿である。明治初年、外務省上海出張所が1873年正式に日本領事館と改称、南蘇州路から虹口に移転して、1891年総領事館に昇格。現存建築は1911年竣工の二代目で、平野勇造設計の3階建煉瓦造。優美な曲線を描くマンサード屋根は黄浦江の遊覧船から、今も眼にすることができる。また虹口碼頭は、かのトウ小平がフランスに行く時に利用した埠頭でもある。この日本郵船埠頭から多くの日本人が上陸し、まっすぐ北に300メートルほど行くと芥川龍之介が泊まった萬歳館などの旅館街が待っていた。多くの日本人は現在のハイアットホテルから閔行路を通り、大きな夢を持って日本人租界地に向かった。

■筆者プロフィール:工藤和直
1953年、宮崎市生まれ。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、日中友好にも貢献してきた。
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