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2025年7月5日に放送を開始したアニメ「光が死んだ夏」には、私の心に強く刻まれている場面が三つある。
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2025年7月5日に放送を開始したアニメ「光が死んだ夏」には、私の心に強く刻まれている場面が三つある。池袋のサンシャイン60展望台で開催されている「光が死んだ夏」展に足を運ぶと、その三つの場面がすべて展示で再現されていた。第一の場面は、佳紀がまだ、光はすでに何者かに乗っ取られているのではないかと確信できていなかった頃のことだ。売店の前で、佳紀が、いかにも何気ない声色で「お前、やっぱ光ちゃうやろ」と口にするその直前まで、観客はただ、親しい友人同士の気軽なやり取りを見ているのだと受け取っていたに違いない。ところが、胸の奥に押し込めていた一言が漏れた瞬間、そして光―「なんでや、完璧に模倣したはずやのに」とそれを肯定した瞬間、佳紀の言葉はまるで魔法の杖のように、場面の気配そのものを転覆させる。数秒の静止の後、ごく短い刹那(せつな)で世界が恐怖の色に塗り替わる。それまで普通の高校生同士の光景に見えていたものが、突如として異様な気配をはらみ、夢のような日常はそこでふいに終わりを迎える。
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背筋を冷たくなで下ろすような感覚は、必ずしもグロテスクな怪物が唐突に姿を現すことで生まれるわけではない。ただ一つの、何気ないようでいて真実をうがつ一言―見た目は人間と変わらない相手が、実は怪物の仮面をかぶっていたという事実を突き付けられたときにも生まれるのだ。それ以降、観客が目にする新しい光の満面の笑みや、歯を見せて笑い転げるしぐさ、無邪気さ故の大きな身振り手振りは、彼が怪物であると知っているが故に恐ろしく映る。恐怖の中にやゆがあり、やゆの中におかしみがある。そのおかしみは、恐らく、新しい光が自分は光ではないと知りながら、あえて光を演じ、しかも自分はうまくやれているとすら思っている滑稽さから生まれるのだろう。そして佳紀も、相手が光ではないと理解しつつ、その光を演じる姿を見つめている―新たな恐怖、過去の友情、そしてひそかな恋慕までもが胸の内でせめぎ合う。
第二の場面は、佳紀がかつて似た経験をした女性と会った後に訪れる。危険かどうかより、むしろ自分の都合のために代用品を受け入れてしまうといういびつさが胸に食い込み、教室で佳紀は光から距離を取ろうとし、新しい光をひとり家へ帰そうとする。ところがその時、新しい光は自らの本体をさらし、その本体は制御を失ったかのように佳紀の体へ侵入し、一瞬で溶け合うように一体となる。侵入は肉体的なものに限らない。光の身体に戻った新しい光は、混ざり合うようにして叫ぶ。「もうさあ…どこまでが自分の感情なんか分からん!」「分かってても、お前を好きなんやめられへん!」―その激しい、時に狂乱に近い感情の奔流は、かつての光には到底できなかった表現である。だからこそ佳紀は悟る。
目の前の光が何割過去の光なのか、過去の光がどれほど友情を超えた思いを抱えていたのか―そんなことはもう問題ではない。新しい光は、自分の感情を丸ごと差し出すことのできる存在なのだ、と。佳紀がその率直さ、無防備さに心を揺さぶられ、気持ちを整えるとすぐ自転車で光の家へ向かう。光の体に入り込んだ怪物としての新しい光にも、確かに心があるのだと。その本体は曖昧な神経の塊のようで、佳紀に入り込む場面は生々しい衝撃に満ちている。「俺あのさ、お前のそばにおれるだけでええから」「もう誰と会ってようがどうでもええ」―子どものような言葉と、怪物としての恐ろしさが奇妙に同居している。強烈な感情表現を前に、佳紀も観客も次第に光を再定義し始める。題名の通り、光は「死んだ」。だがその肉体は完全に死んだわけではなく、ただしばしの間凍りついていただけなのかもしれない。光は別の形で戻ってきた。佳紀への深く、特別ともいえる思いを抱えたまま。新しい光は、その感情をより露骨に、より正直に表す存在になったのだ。
あの狂おしい告白から時がたち、夏祭りの折、佳紀は昔の記憶を思い出す。小川のほとりで水に戯れる光と、岸に座る自分。病んでいるとささやかれた同性愛者について語り合い、村の湿りつくような退屈な午後を過ごした時間。村の狭さに息苦しさを覚えたのは、佳紀がその同性愛者の境遇にどこか共感していたからでもあっただろう。旧い光に思いを巡らせている佳紀を見て、新しい光はそこで身を引こうとするが、佳紀はその袖をつかむ。あの告白は、次第に「あのさ、俺さ、代わりにはなれへんかもやけど、お前のこと絶対守るし」という誓いへと変わり、さらに絶対にうそはつかないという保証へと形を変える。観客はそこで、新しい光の優しさを知ると同時に、恐れも抱く。守るとは、同時に災厄をもたらすことでもあるのではないか。新しい光は本当にうそをつかないと言い切れるのか。あるいは佳紀に、別の目的を抱いているのではないか―と。
第三の場面―彼らは合唱コンに出なかった。クラスメートが送ってくれた「日々の影」の映像を背景に、佳紀の部屋で佳紀は計画通り新しい光へ刃を突き立てる。しかし光は死なない。佳紀が自分を殺してほしいと願っても、新しい光にはそれができない。代わりに新しい光は、中身の半分とも言うべき骨の一部分、血まみれのまま引き抜き、佳紀へ差し出す。光は自分の体内へ手を差し入れることができ、その内側は混沌(こんとん)と闇に満ち、まるで無限の宇宙のように底知れず、美しく、危うい。光は力をわざと弱め、もはや佳紀を殺すことすらできなくなる。それこそが、新しい光にとって究極の感情の表現だったのかもしれない。佳紀はその感情の破壊力にのまれる。たとえこの感情が依存心からくるもので、人間の愛ではなかったとしても。佳紀は新しい光が人間の生命観を理解できないのは当然のことだと悟る。そして「俺はどこまでもお前に付き合うよ、たとえ俺の何かが壊れても」と言う。
考えてみれば、新しい光が佳紀との記憶を覚えているといっても、それは旧い光の記憶にすぎない。多くの思い出を、新しい光は本当には見ていないのかもしれない。佳紀が床にひざまずき、ベッドの上から差し出される骨を受け取る姿は、新しい光を完全に受け入れた瞬間を象徴している。もはや旧い光は、新しい光の前に立ちはだかる障壁ではない。旧い光の外見をまとい、その言葉を使い、そしてその感情すら継いでいる新しい光に、佳紀はすべてを預ける覚悟を決めたのだ。旧い光へのひそかな恋慕、世間の視線を恐れない心、村への憎しみ、内向的な沈黙の裏に潜む反逆性―佳紀が胸の奥に封じていたものは、新しい光に映し返される。

二人は世間の不理解に直面し、村の未知の秘密を探り、孤独に耐え、共に罪を背負っていく。それは同性愛のあり方を、どこかで暗示しているのかもしれない。夏休み、二人は海辺にやってきた。夕日が波を赤く染めている。新しい光は海水の中で岸に立つ佳紀に、自分がまた佳紀を傷つけるのが怖いから、山に戻りたいと伝えた。佳紀は精神的に追い詰められ、光に離れてほしくない。二人が夕方の海辺で泣きながら引き合う。実は、佳紀は新しい光の存在を必要としていたのだ。ずっと性的指向のために自分を抑圧し、周囲の人々に沈黙してきたが、新しい光がそばにいるだけで、彼は救われたと感じるのだ。恐らく、光が人間ではないからこそ、少数者である佳紀は光の怪物としての在り方により強い共感を抱いたのかもしれない。二人はお互いにとっての救いであり、互いの存在にとって重要な意味を持っていると言える。二人は互いにとって唯一の存在として生きていくだろう。
■筆者プロフィール:柴思原
柴思原(柴田海)は、早稲田大学で経済学士号および政治学修士号を取得し、現在は同大学政治学研究科博士後期課程に在籍している。研究分野は政治社会学、比較政治学、世論調査。社会科学の研究を進める一方で、文学創作の分野では科学普及、文芸評論、詩歌を手がけ、これまでにエッセイ集や詩集を多数刊行している。
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