<コラム>華やかな蘇州商業街、反日運動もあった25年の歴史

工藤 和直    2020年8月17日(月) 23時40分

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蘇州市高新区は日本人が多く住むことでも知られ、2012年9月前には8000人程が居たが、現在は半数になっている。

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蘇州市高新区は蘇州駅から南西へ5km、京杭大運河を越えた高新区工業園に展開する。日本人が多く住むことでも知られ、2012年9月尖閣諸島問題で発生した抗日暴動前には上海、北京に次ぐ約1万人が蘇州市で生活し、高新区には日本人学校(写真1上)もあって8000人程が居たが、現在は半数になっている。メイン通路である獅山路と南の玉山路の間に南北に520mほど走る淮海街がある。両側に日本料理屋が50軒、日式スナックが15軒ほどあるのが特長で、一般に蘇州商業街と言い日本人街とも呼ばれた。よく蘇州の中国人は日本料理街とも言っている。

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蘇州高新区工業園建設が始まったのは1986年6月13日である。筆者が初めて蘇州訪問する1年前になる。そして1992年11月12日に「蘇州国家高新技術産業開発区」と命名された。面積は223.36km2である。

1989年に大運河を渡る獅山橋ができ、多くの日系企業が運河路・竹輝路・玉山路周辺に展開、(写真2上)は当時の新区開発中の写真である。1994年頃になると淮海街に日本食堂まがいができ始めた。そのスタートは今でもある日本料理「一番館」(写真3中央、淮海街59号)であった。筆者が駐在開始した2004年1月には商業街に30軒ほどの日本料理屋が存在し、現在も営業しているのは一番館・伊藤園・築地屋・朝日屋だ。最近やめた店に順子(写真3右淮海街2号)・吉兆などがある。

2000年頃から2006年にかけて日式のスナック・クラブが開業して行った。蘇州の特長としては日本料理屋が1階、スナックが2階という基本形が多い。1994年頃に日本料理屋もどきが開業し、食事後店のオーナー自宅2階にあったカラオケセットを利用したのが起源になったという。2000年頃に在ったスナック・クラブは、蝶・PRELUDE・マーメイド(写真3左下)が御三家、その後この店に居た小姐がママとなって独立して、PURE・JOY・OASIS・絹・メロディー・WINKなどを展開し、最大で70軒ほどあった。

当時の商業街(淮海路)はまだ道幅が半分のドブ板通りであった。2003年春、SARS騒ぎで商業街に人影も少なく、どの店も客はほとんど居ない。御花園(写真1下)アパートから出かけるのは、日本料理屋「伊藤園」の2階にあったスナック「蝶」であった(写真4左)。夕方6時過ぎに入り、夜も10時前になり帰ろうとすると“次のお客さんが来るまで”と止められるが真夜中12時になっても誰も来ず、結局筆者一人のみが今日のお客という有様であった。

華やかな商業街であったが、2009年7月4日にスナック「ピアノ」殺人事件が起こった。日本人駐在員がスナック女性を刺殺するという痛ましい事件だ。場所は、「PRELUDE」跡に新たにできたビル2階であった。この事件で日本人会「夏祭り」が中止になった。

2012年9月15日の午後、商業街を騒然とさせた抗日暴動が発生した(写真4右)。この抗日暴動は、日本政府が尖閣諸島国有化を宣言したことに端を発した。商業街は暴徒で破壊され、伊藤園も暴徒が乱入し破壊された(写真4中央)。

当時、蘇州は2500社以上の日系企業と1万人の日本人が住む都市で、非常に親日的な町であるといわれたが、状況が一転した。あれから7年が過ぎ今は昔と同じ穏やかな日本料理街に戻っている。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大学大学院工学研究科修了。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、蘇州市ある日系2500社、約1万人の邦人と共に、日中友好にも貢献してきた。2015年からは最高顧問として中国関係会社を指導する傍ら、現在も中国関係会社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中国や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演会を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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