<コラム>故郷の先輩、住友第3代総理事「鈴木馬左也」、“事業は人なり”の理念は日向高鍋にあった

工藤 和直    2020年1月11日(土) 20時10分

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住友第3代総理事の鈴木馬左也の“事業は人なり”の理念は日向高鍋にあった。

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鈴木馬左也(文久元年(1861年)~大正11年(1922年))、日向高鍋藩家老秋月種節(たねよ)の四男、母方の大叔父鈴木家に養子に入る。明倫堂(高鍋東小学校)・宮崎学校(旧制宮崎中学)卒業後一時金沢敬明学校(金沢大学前身)入学後、東京大学予備門に学ぶ。内務省官僚となったが、明治22年5月に愛媛県書記官として赴任した際に、住友別子銅山開杭200年祭に来賓として新居浜に来た時が住友との最初の出会いであった。

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当時の15代家長「住友友純(ともいと)」と第2代総理事「伊庭貞剛」に懇願されて、明治29年(1896年)に住友大阪本店副支配人として入社(36歳)、明治37年(1904年)に44歳で第3代総理事(住友では家長は統治せず実務を総理事が社長として執行する制度)として国家百年の事業展開を行った。主な企業として、明治44年の住友電線製造所(現、住友電工)を始め、明治45年に伸銅所(その後住友金属・軽金属)、大正2年(1913年)に肥料製造所(現、住友化学)、大正8年に別子銅山電源開発を目的に土佐吉野川水力発電(住友共同電力→四国電力)を設立。大正7年に日米板硝子(現、日本板硝子)、大正9年に日本電気(昭和7年、住友が経営委託)など我国を産業貿易立国に仕立てた(住友グループ広報委員会誌より)。

『秋月家譜』によれば、日向高鍋秋月氏は大蔵氏を遠祖とし、大蔵氏は後漢滅亡時、献帝の孫の阿智王が日本に亡命し帰化したといわれ、阿智王の子孫が大和朝廷の官物を納めた蔵(大蔵)の吏となり、その功によって大蔵姓を授けられた。平安時代、桓武天皇によって征夷大将軍として任命された坂上田村麻呂がいるが、坂上氏も同じく大蔵一族である。秋月氏は、“先祖を中国人”とする一族である。

日向高鍋藩第7代藩主「秋月種茂」が儒官「千手興欽」の進言に基づき、安永7年(1778年)2月24日に藩校「明倫堂」を設立した。藩士のみならず農民等の一般庶民にも入学させたのを最大の特徴とする。高鍋城三の丸(現在の宮崎県立高鍋農業高等学校の一部)に位置し、藩士の子弟に文武を兼学させた。藩士教育に熱心だったことから秋月高鍋藩は『教育の藩』としても知られていた。人を大事にする教育は国家百年の計と言われるが、名君種茂公はその先駆者であった。現在、明倫堂は筆者が通った高鍋東小学校となっている。

この秋月種茂は米沢藩「上杉鷹山」の実兄でもある。鷹山は窮地の米沢藩を救った名君としてその治世は世界に知れ渡る。鷹山は同じく日向高鍋第6代藩主・秋月種美の次男として生まれ、母方の祖母が米沢藩第4代藩主・上杉綱憲の娘であるこのことが縁で、10歳で米沢藩の第8代藩主・重定の養子となった。先祖を漢王朝一族とする日向秋月家は国家百年の教育システム(人つくり)を作り、明治国家に至ってはその子孫「鈴木馬左也」によって近代日本の礎を築いたといえよう。

秋月家の菩提寺は、高鍋城(舞鶴城)から北へ1.5kmほど行った龍雲寺跡(写真1左)にあり、種茂公ほかの墓石が並んでいる(写真1右)。鈴木家の墓は更に北へ100mほど行った所にあり、馬左也は大正11年(1922年)12月25日に享年62歳で亡くなった(写真2)。もうすぐ没後100年になる。“事業は人なり”の金言を、筆者も含む多くの後輩が今も引き継いでいる。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大学大学院工学研究科修了。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、蘇州市ある日系2500社、約1万人の邦人と共に、日中友好にも貢献してきた。2015年からは最高顧問として中国関係会社を指導する傍ら、現在も中国関係会社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中国や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演会を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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