<コラム>鎌倉御家人「児島高徳」と越の忠臣「范蠡」の生き方

工藤 和直    2019年10月9日(水) 23時30分

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春秋戦国時代を飾る英雄として呉王「夫差」と忠臣「伍子胥」、越王「勾践」と忠臣「范蠡」の関係がよく言われる。この范蠡を日本で有名にさせたのが、鎌倉御家人「児島高徳」が刻んだ一句の漢詩であった。

春秋戦国時代を飾る英雄として呉王「夫差」と忠臣「伍子胥」、越王「勾践」と忠臣「范蠡」の関係がよく言われる。2500年前の中国江南の英雄による歴史は、臥薪嘗胆・呉越同舟などの述語を生んだ。この范蠡(Fan Li)を日本で有名にさせたのが、鎌倉御家人「児島高徳」が刻んだ一句の漢詩であった(写真1左)。

元弘2年(1332年)、後醍醐天皇は先の元弘の変に敗れ隠岐へ遠流となる。天皇護送団を強襲し後醍醐天皇の奪還を画策したが、天皇一行の移動ルートを読み間違え失敗に終わる。天皇一行は播磨・美作国境の杉坂を過ぎ、院庄(現在の岡山県津山市)付近へ達しており、完全な作戦ミスで奪回に失敗した。

その際、児島高徳ただ一人が天皇の奪還を諦めず、夜になって院庄の天皇行在所「美作守護館」の厳重な警備を潜り侵入する。やがて天皇宿舎付近へ迫るも、それまでの警備とは段違いな警護の前に天皇の奪還を断念、傍にあった桜の木に「天莫空勾践 時非無范蠡」(天は春秋時代の越王“勾践”に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。きっと“范蠡”の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょう)という漢詩を彫り込み、その意志と共に天皇を勇気付けた。

翌朝、この桜の木に彫られた漢詩を発見した兵士は何と書いてあるのか解せず、外が騒々しい為に何事かと仔細を聞いた後醍醐天皇のみ、この漢詩の意味が理解できたという。この時彫られた「天勾践を空しゅうする莫れ、時に范蠡無なきにしも非ず」の言葉通り、翌年には「名和長高」ら名和一族の導きにより天皇は隠岐を脱出、伯耆国「船上山」において挙兵した。高徳も養父「範長」と共に幕府軍と戦い戦功を挙げたとされるが、その論功行賞の記録に高徳の名前が無い。それが「児島高徳」不在説の根拠とされている。

越王「勾践」は呉王「夫差」亡き後の江南の主となるが、その影には美女「西施」を敵将に送り込むなど画策した忠臣「范蠡」の努力を忘れてはいけない(写真1右)。また、越王「勾践」が囚われの身として呉国の「姑蘇台(霊岩山)」中腹にある観音洞に入れられ、厩の雑用など奴隷に近い生活をする中、何かと世話をしたのが「范蠡」である。中国四大美女「西施」は生涯二度しか笑わなかったと言う。その一度が、観音洞窟に囚われたみすぼらしい乞食同然の越王「勾践」に会いに来た時だといわれている。

范蠡は人生の達人であった。大きな名声の中にあって、身の安全を長く保ち続けることはできないと判断、越王「勾践」が凱旋した数日後、范蠡一族は越を去った。遠点を見て遠回りも辞さない大局観は、呉の宰相であった「伍子胥」には見られない。この点で、范蠡は三国志の「諸葛孔明」に似ている。孔明が蜀王「劉備」とその子「劉禅」から絶大な信頼を得たのは、過ちと分かってもいったんやらせ失敗後に備えるという、深い気配りによっていた。忠臣「范蠡」は第二・第三の人生で成功したと言われるが、おそらく美女「西施」と手と手を取って他国で成功したと筆者は書き加えたい。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大学大学院工学研究科修了。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、蘇州市ある日系2500社、約1万人の邦人と共に、日中友好にも貢献してきた。2015年からは最高顧問として中国関係会社を指導する傍ら、現在も中国関係会社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中国や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演会を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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