<コラム>谷崎潤一郎と芥川龍之介の蘇州放浪記を読んで

配信日時:2019年6月28日(金) 23時40分
<コラム>谷崎潤一郎と芥川龍之介の蘇州放浪記を読んで
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今でこそ旅行本は店屋に溢れ、世界中どこに行くにも不自由はない。では100年前はどうだったのであろうか。旅行本の先駆けになったのが、谷崎潤一郎「蘇州紀行」であり芥川龍之介「江南遊記」であった。
1987年、筆者が初めて蘇州に行こうと思って読んだのが、司馬遼太郎の街道を行く「江南の道」であった。今でこそ旅行本は店屋に溢れ、世界中どこに行くにも不自由はない。では100年前はどうだったのであろうか。旅行本の先駆けになったのが、谷崎潤一郎「蘇州紀行」であり芥川龍之介「江南遊記」であった。ちょうど南満州鉄道が完成し、上海⇔北京間も開通した1910年頃になると、ちょっと大陸に行こうかと思う日本人が多く見られた。

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谷崎は1918年(大正7年)朝鮮半島へ渡り満州から北京、そして南下して漢口・南京のあとに蘇州に到着している。芥川は谷崎に遅れること3年、1921年(大正10年)3月に上海に上陸、谷崎とはまったく反対のコースで中国紀行をしている。芥川の文章には至る所に谷崎を意識した文が出てくるが、極めて対象的でまるで“仇への礼賛”と思われんばかりである。

谷崎は1918年(大正7年)11月22日午前に南京を発ち、蘇州城外北に位置する蘇州停車場に夕暮れ頃着いた。駅からは西の外堀沿いに南下して盤門を通り、南門(人民路)南にある日本租界の旅館までの約6kmを馬車で移動した。盤門の西を行く時「左手の濠の方を見ると長い長い城壁がそのまま殷賑な蘇州市街を包んで居ようと思えないほど穏やかに、まるで牢屋の堀のように静かに静かに続いて、その向こうにはたった一つ、灰色の高い塔(瑞光寺)が聳えているだけであった」と蘇州紀行に書いてある(写真1)。

芥川は大正8年に大阪毎日新聞に入社、翌々10年に海外特派員として中国への旅に出た。3月30日には上海に入港するが、乾性肋膜炎で3週間、上海里見病院に入院する。病み上がりの取材(新聞社員)であったがためか、彼の中国評価は極めて低い。「街の不潔」「人間の汚さ」「乞食」「売春婦」など、これだけ書けばもう記者でなく個人評論である。「上海は何かと騒がしく人間もソワソワして実に忙しい」などの表現が多い。又、病み上がりで書いた江南遊記の中に、現在も多くの日本人観光客が訪れる姑蘇城外寒山寺(写真2)について、「俗悪恐るべき建物だから到底月落ちて烏啼くどころの騒ぎじゃない」と毒舌をも吐いている。

しかし反面、蘇州停車場から南に1kmの報恩寺北寺塔の上から眺めた蘇州城内の情景(写真3)を「黒い瓦屋根の間に鮮やかな白壁を組み込んだ町並みが、思ったより広々と広がっている。その向こうに霞を帯びた高い塔があると思ったら、それは孫権が建てたとか云う名高い瑞光寺の古塔であった」とか「南方では蘇州も杭州も南京も漢口も見ましたが、矢張一番気に入ったのは蘇州の景でした」とか「蘇州はつまらない所じゃない、ベニスのようにまずは水がある」と言った表現もある。蘇州の風景については好評価の感が多い。

谷崎は出版社の依頼で原稿料を前借りしてこの紀行文をまとめたので、「中国のきれいな景色の中」に「同じ日本」を探そうとしたのに対し、芥川は記者として常に「人」を見て、中国の風景に対する賞賛は少なく、市井の中の庶民の生活から個人見解をまとめた感がある。中国の「不潔」を言う背景には西洋列強の植民地主義を厳しく非難する芥川の「怒り」が感じられる。結論として、谷崎は「ロマンチックに浸り」、芥川は「リアリズムに徹した」と言うべきであろう。

■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、日中友好にも貢献してきた。
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