<コラム>韓国の仁川女子商業高校に残る、「仁川神社」を訪ねて

工藤 和直    2019年5月28日(火) 23時20分

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韓国の仁川女子商業高校に残る「仁川神社」を訪ねた。

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韓国「百済」の始祖伝説によれば、仁川は紀元前18年頃、沸流(ピリュ)が建国した彌鄒忽(ミチュホル)の都だった。仁川はもともと百済に属したが、5世紀以降は高句麗や統一新羅の領土となり、買召忽(メソホル)と呼ばれていた。高麗時代に仁州慶源府となった。李朝朝鮮太祖元年(西暦1392年)に仁州と復名し、太宗13年(西暦1413年)に仁川郡になった。1876年(明治9年)、日朝修好条規(江華条約)によって開港し当時の人口はわずか4700人余りの漁村であったが、その利便性の高さから大きく発展した。

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1882年1月、条規に基づいて日本領事館が建設された。日本統治時代に仁川府(じんせんふ)が設置され、1949年に仁川府は仁川市と改称した。朝鮮戦争1950年9月、国際連合軍は仁川上陸作戦を敢行し戦局が一変した。現在は、首都ソウルから40キロ圏に位置する港湾都市であり、内陸にあるソウルの外港として発展している。

日朝友好条規(江華条約)を契機に、日本人が居住するために設けられた租界が発展、日本からの移住者で人口が増えて近代的な街が築かれた。租界制度は韓国併合(1910年)後に廃止されたが、当時1.2万人の日本人が仁川に住んでいた。1945年、日本の敗戦によって韓国に戻されたが、伝統的な建物は老朽化などで解体されたものを除いて残った。この日本租界地の西に1884年から清国租界地(現在のチャイナタウン)が広がっていた。その日清租界地境界にある階段が歴史の生き証人で、東側に日本式灯篭、西側には中国式石塔と、ここが境目の階段であることが見て分かる。韓国併合前に朝鮮半島には、釜山(3万人)・元山(8千人)・馬山(4.6千人)・仁川(1.2万人)の日本租界地があった。

現在の中区庁舎は1882年に作られた日本領事館跡である。戦後は仁川府庁舎になり、現在は区役所になった。玄関から入ると二階に上がる石の階段があるが、玄関付近の石造りとあわせ日本建築であることがすぐ分かる(写真1)。

区庁舎の一ブロック南の道路沿いは、当時の仁川日本租界地街である。第一銀行(現みずほ銀行)・第十ハ銀行・第五十八銀行などがあった。その日本人街をほぼまっすぐ東南に向かうと仁川公園と仁川神社があった。地下鉄新浦駅から3分程の仁川女子商業高等学校の敷地内に、2本の鳥居石柱痕跡と石灯篭が現存することに驚いた。しかも石灯篭には昭和19年2月と刻まれ、周辺には玉垣跡の石柱が無造作に置かれていた。まさにここが、日本の仁川神社であった(地図1)。朝鮮半島には1000に近い日本式神社が存在したが、石灯篭がそのまま立っているのはここだけだろう。地図を見ると仁川神社の北には東本願寺もあった。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大学大学院工学研究科修了。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、蘇州市ある日系2500社、約1万人の邦人と共に、日中友好にも貢献してきた。2015年からは最高顧問として中国関係会社を指導する傍ら、現在も中国関係会社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中国や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演会を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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