<コラム>靖国神社と同じ役割だった中国・長春の神社、なぜ戦後破壊されなかったのか

工藤 和直    2019年2月7日(木) 23時40分

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吉林省長春市にあった長春神社はコンクリート造りであったのが幸いしたのか、戦後は戦災孤児保育園として利用され、その後は長春人民政府第一幼稚園となった。写真は筆者提供。

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新京(現在の吉林省長春市)は世界的にも模範となる国際都市になる予定であった。新京の新街路計画を見ると、新京駅から南へ一直線に幅54メートルの大同大街(人民大街)が延び、1キロメートル先に大同広場(人民広場)を建設した。新京駅左45度に日本橋通り(勝利大街)、右45度に敷島通り(漢口大街)が走り、大同広場(人民広場)から6本の大街を放射状に作った。この広場の周囲に役所・銀行・警察署・電話局を置いた。新京駅と孟家屯駅の中央に新駅を作り、そこから放射状に街路をまた作る。このように、放射状の大街と格子状の街路を並行して作ったのを特徴とする。

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新京特別市敷島区平安町(現在の人民大街35号)にある長春神社(1915年創立:写真1)の拝殿・幣殿部は、東北地方の冬季の寒さや雪を考慮し、コンクリート造りであったのが幸いしたのか、戦後は戦災孤児保育園として利用され、その後は長春人民政府第一幼稚園となった。(写真2)は1990年頃の航空写真であるが、参拝殿がはっきり写っている。現在、拝殿の内部は改築されているが、社務所は現在も幼稚園建屋として利用されている(写真3)。不思議なことに北側(松江路)には鳥居が現存する(写真4)。

 

長春でもう一つ不思議なのは、建国忠霊廟(靖国神社と同じく満洲事変以降の殉職者を祭る)が現存している事であろう。(地図1)右上の人民大街と南湖大路の交差点西南角は現在、実験中学になっているが、そこが忠霊廟の入口で現在の長飛幼稚園西隣(金士百大厦の西)の場所が忠霊廟になる。(写真5)のグーグル航空写真で見ると、廟の回廊を含めほぼ全部が現存していることが分かる。

特徴は、参拝殿から本殿が南東に向いており、その方向に伊勢神宮がある。また建屋の特徴は、和漢折中様式であることだ。昭和15年(1940年)に創立され、(写真6)は当時の東廡(東門)である。(写真7)が現状の拝殿の荒れ果てた状態であるが、群青色の瓦から当時の豪華さを想像させてくれる。津田良樹氏の「『満洲国』建国忠霊廟と建国神廟の建築について」によると、靖国神社と同じ役割であったので戦後真っ先に破壊されるはずが何故残ったのか、その外観が中国式であったのも一つの要因であると考察しているが、筆者はそれ以外に共産党トップの誰かが暗黙の指示をしたのではと推測する。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大学大学院工学研究科修了。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、蘇州市ある日系2500社、約1万人の邦人と共に、日中友好にも貢献してきた。2015年からは最高顧問として中国関係会社を指導する傍ら、現在も中国関係会社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中国や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演会を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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