どんな場所でもきれいな日本!都市の秩序をどう保っているのか―中国メディア

Record China    2012年8月26日(日) 7時8分

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24日、中国メディアは「日本は都市の秩序をどう保っているのか?」と題した寄稿記事を掲載した。写真は鹿児島。

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2012年8月24日、人民網日本語版は中国中日関係史学会理事、中日桜花文化交流センター主任の周冬霖(ジョウ・ドンリン)氏の寄稿記事を掲載した。

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日本語の「きれい」には「美しい」と「清潔で整然としている」の2つの意味がある。日本の都市は「きれい!」と呼ぶに値する。日本には中国の「城管(都市管理行政法執行局)」のような組織はなく、巨額の財政を投じて支える「城管隊員」の大軍もない。だが日本を訪れた人は誰しも都市や農村の清潔さ、公共の場所の秩序に感服し、「民度が高い」と日本人を心から称賛し、「中国人は数十年経っても追いつけない」と感じる。こうした見方を裏付ける実例も数多くある。例えば10数万人の日本人がスポーツの試合を観戦して帰った後、競技場にはごみ1つ落ちていなかった等々だ。

私も日本の都市や農村を旅行したが、確かに同感だ。日本の都市や農村の「きれいさ」と、わが国や私の暮らす都市とのコントラストは余りにも鮮明で、感慨無量だ。日本の田舎の田畑、果樹園、野菜畑、小屋は全てが清潔で、まるで環境全体が公園のようだ。都市も同じだ。収集時間に間に合わなかったごみも、密封されているのでほとんど異臭はなく、指定されたごみ集積所に整然と分類して置かれている。公共の場所のごみ箱や指定された喫煙所の周囲には吸い殻や空き缶が1つ2つ落ちていることもあるが、非常にまれだ。公衆トイレも清潔でほとんど異臭はしない。東京では、用を足すわけでもないのに公衆トイレを独り占めして休む人がいて、社会問題になっているほどだ。

奈良、京都、広島といった都市は、それ自体が古典美と現代的要素が調和した大きな公園のようで、歩くだけでも快適で楽しい。東京や大阪は中国の北京、上海広州よりも人口密度が高く、騒音やにぎわいは似ているが、行き交う人の流れは整然とし、黙々と列に並び、小さな声で話しており、人々の声で沸き返るような騒々しさはない。高度に都市化した現在の日本の大都市や中都市は、大通りであれ路地であれ、中国のような壁に無数に貼られた広告を見かけることはない。自動車の違法な駐車や放置も目にしないし、クラクションの音も耳にしない。みだりに痰を吐いたり、ごみ、果物の皮、紙くず、食べ物や飲み物の包装を捨てる人も見かけない。喫煙する男性はたばことライターだけでなく携帯灰皿も必ず持ち歩き、自分の灰は自分で持ち帰る。公共の場所で堂々とたばこを吸う人はまずなく、歩道を歩く際ですら、路上に「喫煙禁止」の標識があれば、誰もたばこをふかさない。男性も女性も自分から進んで指定の喫煙所に行って吸う。

日本人が清潔さを好み、秩序を重んじることは、すでに世界的に有名だ。日本人は自分たちのふるさとの環境をしっかりとつくり、美化し、保護するだけでなく、しっかりと管理、維持している。「日本国民の資質の文明度は本当に高い!」と多くの人が心から賛嘆する。

では、日本人はどうやってこれらを成し遂げたのか?

「日本人はわれわれ中国人の余り清潔でないこと、わが中国の市街地が整然としていないことを、世界第一のように口にする。だが実は日本の最も有名な都会も一部の賑やかな界隈を除けば、西洋文明の洗礼を少し受けている以外、全ての裏通りは、その清潔でない点、整然としていない点においても東洋第一の模範国に恥じないのだ」――。郭沫若氏が1922年2月の『今津紀遊』でわれわれに詳しく紹介した日本の都市や農村の不潔、無秩序、劣悪は、実はわれわれにも十分馴染みのある光景だ。このことからわれわれは、日本人が元々現在のように「きれい」だったわけではないということを知るのである。

第二次大戦前後には日本人も「東洋人」の悪癖を数多く持っていたことは多くの資料から明らかだ。公共秩序を重んじず、列に並ばない、割り込みをする、みだりにごみを捨てる、みだりに貼り紙をする、みだりに露店を出す、みだりに停車する等々だ。では日本人はどうやって自らの悪癖を捨て去り、世界の認める「文明人」になったのか。日本には「城管」がないのに、一体どうやって都市の不潔、無秩序、劣悪を正し、今日のような「きれいな」ふるさとをつくり上げたのだろうか?

探求してみると、1つには国民が子どもの頃から受ける教育、もう1つには整った法体系のもたらす効果的な管理によるものであることに気がつく。日本は1948年に「軽犯罪法」を制定し、1983年に改正した。同法は34の「軽犯罪」を定めている。諸方をうろついて人に迷惑をかける、公共の場所で粗野もしくは乱暴な言動をする、公共の灯火を破壊する、水路の交通を妨げる、災害救援時に協力しない、割り込みをする、静穏を害す、身体を露出する、学位、職務、資格を詐称する、虚偽の災害事実を報告する、こじきをする、のぞき見をする、痰を吐く、所構わず大小便をする、みだりにごみを棄てる、みだりに露店を出す、みだりに停車する、動物虐待などは全て犯罪とされる。犯罪者は拘留または科料に処せられる。規則や法律に違反した場合、将来の進学、就職、融資などに大きな影響がある。しっかりとした法律とその抑止力によって、都市管理効果は著しく高まったのだ。

軽犯罪は警察が処理する。日本の警察の法執行はしっかりしており、当事者の態度がどうあろうと、良い姿勢で接し、暴力をふるうことはない。私情ははさまず、違法行為は必ず追及する。この意味において、日本人が規則を守るのも管理の結果なのだ。

国の法律に加え、地方も現地の実情に沿った規則を定めている。例えば東京都の「生活環境条例」は違法駐車、歩きたばこ、公共の場所での喫煙、指定された「路上禁煙地区」での喫煙をみな処罰の対象としている。しっかりとした法律、法規の規制があることから、ほとんどの日本人は規則や法律を遵守する良い習慣を身につけ、今日われわれの目に映るような「民度の高い」マナーある公民になったのだ。それ以来、膨大な「城管」隊員と不潔、無秩序、劣悪の張本人たちとの「遊撃戦」は不要となり、ごく少数のルールを守らない者を警察が法にのっとって管理・監督するだけでよくなり、都市管理も割合楽な仕事になったのだ。

実は不潔、無秩序、劣悪を「犯罪化」する都市管理モデルは決して日本だけではない。例えばシンガポールや欧米の多くの国では、暮らしにおける「悪習慣」を犯罪とすることが珍しくない。法律の威嚇力と拘束力によって都市を管理し、人々のモラルやマナーも高まったのだ。たとえばみだりにごみを棄てたり痰を吐く行為は、香港では罪を認めれば1500香港ドル(約1万5000円)の罰金となり、罪を認めなければ収監される。シンガポールでは200シンガポールドル(約1万2500円)の罰金となり、再犯の場合はさらに重い罰を科せられる。たとえば12時間収監されたうえ、「私はごみ箱です」と書かれた赤いベストを着て街頭清掃をしなければならないのだ。

こんな代償を払ってまで、法律や規則を犯す者がいるだろうか?(編集/TF)

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