<コラム>日本の空海と中国に伝わったキリスト教「景教」の意外なつながり

配信日時:2018年3月10日(土) 17時0分
日本の空海と中国に伝わったキリスト教「景教」のつながり
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中国に初めて伝わったキリスト教は、ネストリウス派の流れをくみ「景教」と呼ばれていました。その景教を伝えたのがソグド人。ソグディアナと呼ばれる地域出身のイラン系民族です。写真は中国の教会。
2010年と少しデータが古いのですが、全世界のキリスト教徒数は約21億7000万人。そのうち中国国内のキリスト教徒は約6700万人です。政治的な問題で自由に信仰するのは難しい状況であるにも関わらず信者数は上昇傾向にあり、2030年には世界最大数のキリスト教徒を抱える国になる可能性もあるそうです。

そんな、「隠れたキリスト教大国」でもある中国ですが、普及のきっかけは16世紀(明代)、マテオ・リッチらイエズス会の宣教師によるによる伝道活動がきっかけでした。しかし、それ以前にも、一時的ではありますが中国国内にキリスト教信者が多数存在していた時代がありました。それが唐代です。

中国に初めて伝わったキリスト教は、ネストリウス派の流れをくみ「景教」と呼ばれていました。その景教を伝えたのがソグド人。ソグディアナと呼ばれる地域出身のイラン系民族です。このソグディアナは、今のウズベキスタン共和国にあるサマルカンド州やブハラ州、タジキスタン共和国のソグド州辺りになります。

ソグド人は、商人として有名な民族でしたが、それだけでなく各地にコロニーを作り、さまざまな国家に文化や宗教、政治など多方面に渡る影響を与えました。彼らの信仰していた宗教は主に三つ。ゾロアスター教(けん教※「けん」の字は示偏に天)、マニ教(明教)、キリスト教(景教)で、これらを総称して三夷教と呼びます。今回はこの三夷教の一つ、景教にまつわるお話をご紹介します。

景教はキリスト教の一派であるネストリウス派に属します。ネストリウス派とは5世紀、当時のコンスタンティノポリス総主教であったネストリウスによって説かれた教義です。ネストリウス派の特徴を簡単に言うと、「聖母マリアの信仰がない」ということです。

難しく言うと、キリスト教には「両性説」といってイエス・キリストには神性と人性二つの“位格”があるという考え方がありました。ネストリウス派はこの両性説を取り、マリアはイエスの「生みの親」であって、「神の母(聖母)」ではないとしています。

ネストリウス派は431年のエフェソス公会議で異端と認定され、教えを説いたネストリウスはエジプトに追放となります。ネストリウスの追放後、残された弟子たちは東方へとその教えを広めて行きます。この教えがソグド人に伝わり、「景教」として中国に知られることになるのです。

この「景教」、中国からはなくなってしまいましたが、ネストリウス派は今も「アッシリア東方教会」として存在しています。このほか、「カルデア教会」という16世紀にアッシリア東方教会から分離した教派もあります。ちなみにこのカルデア教会は1830年にローマ教会へ正式に合流(フル・コミュニオン)しています。異端として追放された後、約1400年経って再びローマ教会に戻ってきたわけです。さらに1968年にはバグダードで「古代東方教会」がアッシリア東方教会から分離・独立しています。これらネストリウス派の諸教会は主に中東やアメリカで活動しています。

さてネストリウス派は異端認定された後、隣国のササン朝ペルシャで保護を受け伝道を続けます。そしてササン朝がイスラムに滅ぼされるまでの間、ペルシャ帝国内にネストリウス派の本部が置かれました。ササン朝滅亡後はバグダードに本部を移し、イスラム帝国内で活動を続けることとなります。イスラムの支配下だと迫害を受けるイメージがあるかもしれませんが、実際は引き続き保護を受け、ペルシャ時代よりもさらに広い範囲で布教を進めて行きます。

景教が正式に中国に伝来したのは唐の太宗の貞観9(635)年。宣教師・阿羅本(アロペン)が布教のため長安を訪れ、二十四功臣の一人・宰相の房玄齢が彼らを出迎えたとされます。そして太宗によって長安に景教寺院が建てられ、景教の布教が正式に始まります。

しかし、布教活動は決してスムーズには行きませんでした。高宗の時(650〜683年)に一時的な発展を見せるものの、則天武后の時代(690〜705年)に入ると仏教が第一に置かれたこともあり、思うような活動はできませんでした。

しかし、玄宗の時代(712〜756年)に入ると再度勢いを取り返します。そしてそれまで、寺院は波斯寺、ネストリウス派のことを波斯経教やミシア(メシア)教(※漢字はいろいろな書き表し方が伝わっているので割愛)と呼んでいましたが、この時代にそれぞれ大秦寺・景教と改められました。

最初のころ、波斯―ペルシャという名をつけて呼ばれたのは、景教の本部がペルシャにあり「ペルシャ」からきた宗教であるという認識があったからです。しかし、その後、ネストリウス派はローマの宗教であるという認識に改まり、改称されたと考えられています。ちなみに大秦とはローマのことで、また景教の「景」とは光明を意味しています。

またササン朝滅亡後、ササン朝の王子たちが長安に亡命しており、彼らの信奉するゾロアスター教のために、「波斯胡寺」というのも建てられていたので、ややこしかったというのもあるかもしれません。

そして景教は代宗から徳宗の時代(762〜805年)にかけて最盛期を迎えます。そのきっかけを作ったのが、粛宗の時代(756〜762年)に景教布教強化のためにバルク(今の新疆ウイグル自治区アクス市)からやってきた司教・伊斯(ヤズドボジド)です。

彼は安史の乱を平定した郭子儀に力を貸すなど政治的にも活動し、粛宗に重用されます。その結果、景教は当時の貴族たちの間で流行するようになりました。それを記念し、伊斯の資金提供のもと徳宗の建中2(781)年、『大秦景教流行中国碑』(景教碑)が建てられます。

そしてこの景教碑にまつわる話に「え?」と言いたくなるような妙な話があるのです。

景教碑は、漢文と「エストランゲロ」と呼ばれる古体シリア文字で書かれた文章の二つで書かれています。この碑文の文章を作ったのが伊斯の子アダム、漢名「景浄」です。ちなみに景教の聖職者は婚姻ができ、伊斯・景浄の家系は代々景教の聖職者をしていました。そしておそらく景浄の世代から、中国在住の景教聖職者は「景」を姓にした漢名を名乗るようになりました。

この景浄は語学に優れており、景教碑文だけでなく多くの景教経典も漢訳しました。さらに異教徒ながら、インド人僧・般若三蔵がソグド語の『大乗理趣六波羅蜜多経』を漢訳するのを手伝っています。

実はこの般若三蔵、804年(日本の延暦23年、中国の貞元20年)に入唐した弘法大師空海のサンスクリット語の師でもありました。このことから、景浄−般若三蔵−空海というルートが成立し、空海は景教と接触があったという考えがあります。それどころか、空海は景教を学び、真言宗の教えは景教、つまりネストリウス派キリスト教の影響を受けていると考えている人たちもいます。まさしく「え?」です。

中でもアイルランドの仏教研究家であったゴードン夫人という方は、高野山を訪れた際「真言宗と景教とのつながり」を確信し、明治44(1911)年に自分でお金を出して高野山に景教碑を建ててしまっております。その隣にご自身の墓所もあるそうなので、ある意味、自分のお金で自分の墓に自分の好きなオブジェを建てたってことになりますが…お金持ちの行動力って凄い…。

で、実のところどうなのか、気になりますよね。その前に景浄と景教について、もう少し詳しく。

まず景浄が行った仏典の漢訳は『大乗理趣六波羅蜜多経』だけです。しかもメインは般若三蔵であって、異教徒である景浄はあくまでもサポート的な立場でした。その一方で「本職」の景教経典は『大秦景教宣元至本経』『志玄安楽経』『景教三威蒙度讚』など確認できるだけで30部ほど著しています(余談ですが、三威蒙度讃はいわゆる賛美歌のようなもので、中国キリスト教会発行の『賛美詩(新編)』にも収められているそうです)。

漢訳された景教経典の特徴は「仏教」や「道教」の素材をふんだんに取り入れている点です。例えば景浄が著した『志玄安楽経』は「無動無欲、即不救不意。無休無為、即能清能浄。能清能浄、即能晤能証。能晤能証、即遍照遍境。遍照遍境、是安楽縁」といったように、老子の『道徳経』にそっくりな思想が、仏典と同じ様式の文章で書かれています。

つまり、景浄が著した景教経典は純粋な「聖書」ではなく、「漢化した経典」であったわけです。例えば教主は「法王」、教会は「伽藍」や「寺」、神父は「比丘」や「僧」、神ヤハウェは「天尊」という風に仏教や道教の用語を使って経典が書かれています。景浄が撰述した景教碑文でも「上座」や「法王」といった仏教用語を見ることができます。

この景教漢化の痕跡は彼らの名前からも解ります。伊斯(ヤズドボジド)まではその名の音訳ですが、その子景浄(アダム)の世代になると皆「景」という姓を使った漢名を名乗るようになっているからです。

景浄の世代で一気に漢化が進んだと考えると、景浄は般若三蔵との仏典漢訳プロジェクトを通して「漢人に受け入れられるコツ」を学んだのではないでしょうか。つまり彼は仏教をリスペクトして、景教をカスタマイズし、多くの人に受け入れられるようにしたのです。要するに「景教が(空海の)仏教に影響を与えた」わけではなく、「景教が仏教に影響を受けた」のです。

しかしながら、景教碑を高野山に建ててしまうほど、そのつながりは近かったのでしょうか?

実は空海が般若三蔵に師事したのは最初のうちのほんの数カ月で、その後は青竜寺の恵果和尚に師事して本格的に密教を学んでいます。しかも空海の長安滞在は804年の12月末から806年の3月まで、約1年3カ月という大変短い期間です。その間に、サンスクリット語を学び、密教の奥義を会得しているわけです。

そして空海が般若三蔵に師事してサンスクリット語を学んだのは、他でもない密教を学ぶためでした。言い換えれば専門科目を学ぶ前に、必須の語学を別のスクールで習得したということに他なりません。空海は何に重きを置いたかは、学習期間からもうかがい知れます。般若三蔵に師事したのは804年の2月からですが、5月には恵果和尚に師事しています。空海は長くない長安滞在中、そのほとんどを密教を学んだ青竜寺で過ごしているのです。

ただ空海が入唐した当時は景教の全盛期でもあったので、まるっきり接触がなかったと考えるのも無理があるとは思います。そしてまた景教は仏教をリスペクトしていた時代でもあるので、今、私たちが感じるような「仏教」と「キリスト教」ほどの差もありませんでした。しかし一方で空海の濃密なスケジュールを考えると、景教を知ったとしても、影響を受けるほどではなかったと考える方が自然です。

つまり、高野山の景教碑とは空海の「サンスクリット語の先生の昔のプロジェクト仲間が作った異教の碑文のレプリカ」でしかないのです。

景教碑のレプリカのさらに悲しい逸話として、京都帝国大学(当時)の教授だった桑原隲蔵(くわはらじつぞう)先生が大正12(1923)年に行った講演会で、高野山の景教碑について「現物と似通っていないところが遺憾」といわくを付けられてしまっています(おまけにこの講演の内容は『大秦景教流行中國碑に就いて』として桑原隲蔵全集に収められ、著作権切れとなった現在は青空文庫で公開されており、誰でも見ることができます)。

もっとも、景教碑のレプリカは京都帝国大学にもあったので(現在は京都大学博物館蔵)、「うちの方が優れている」という自慢でもあったとは思いますが。しかし景教碑研究の大先生に「もう少し頑張りましょう」的な烙印を押されてしまったのは残念な事実です。

結局のところ、「高野山になんで景教碑が!?」というのは、「景教と真言宗につながりがある」証ではなく、さまざまな国から多様な人たちが集まっていた唐の長安で、点と点でインド人とソグド人と日本人がつながった証しなのです(ゴードン夫人の真意はともかくとして)。

そしてまた、その般若三蔵という縁でつながった二人は、それぞれ中国景教と日本仏教の優れた領袖でもありました。そう考えると、二つの点をつないだ般若三蔵は本当にすごい奇縁を持った方だとも思います。

ついでですが、景教と空海という「点でのつながり」は、まだまだ広げることも可能です。例えば景浄の父・伊斯を通して安史の乱という歴史的なことにつなげていくこともできますし、景浄の故郷バルク(景浄がバルク出身かどうかは、実は微妙なのですが、祖父と父がバルクにいたのは景教碑のシリア文面で確認ができるので、ざっくりとバルクにしております。実のところ、伊斯はバルクを出てラジャスタンで司教をしてから中国に赴いているので、景浄はラジャスタンや中国で生まれた可能性も否定できません)と般若三蔵の故郷カピシー、どちらも玄奘三蔵の立ち寄った国なので、初唐の偉大な求法僧と(かなり無理やりですが)つなぐことも可能です。もっともここで弘法大師と玄奘三蔵法師をつなげられるかどうかは、かなりの勝負ですが。

こんな感じで、つながりとか縁って四方八方意外なところにまで広げていくことができるので、高野山に景教碑があってもいいじゃないって思えてきませんか(もっともイレギュラーなつながりであることには間違いはありませんが)。

そんな高野山の景教碑ですが、いろいろな国のいろいろな文化を包み込んで成り立っていた唐代の象徴には間違いありません。そしてまた、唐代にあったさまざまな異国の文化は時代を経るに従い「漢化」して漢文化に溶け込んでいく課程も知ることができます。たしかに「え?」と思いたくなる組み合わせですが、遙か昔の長安の様子をうかがい知ることもできる貴重な存在でもあるのでした。

さて、この中国景教ですが、全盛期から1世紀も経たぬうちに終焉を迎えます。840年に即位した武宗による「会昌の法難」もしくは「会昌の廃仏」と呼ばれる宗教弾圧によって、寺院は閉鎖され景教僧は塞外へと追放されます。

塞外へ去って行った景教徒たちは、その本拠地を高昌に移します。その後はソグド人の末裔や彼らと関係の深い遊牧民の宗教として―つまり、阿羅本の中国布教以前の姿に戻って存続していきます。

13世紀、元の時代になって、景教徒は再び中国に戻ってきますが、これはあくまでも“色目人の宗教”であって、かつて貴族たちの間で流行ったようなものとは違いました。景浄たちが説いた教えも景教碑も、文字通り土に埋(うず)もれていき、忘れ去られていったのでした。

この土に埋もれた景教碑の“発見”についても、なかなか興味深いエピソードがあるのですが、長くなるので、それはまた改めて次回に。ローマ教会(カトリック)との関係も含めてご紹介したいと思います。

■筆者プロフィール:瑠璃色ゆうり
東京出身。立正大学文学部史学科卒(東洋史専攻)。ライターとしての活動は2006年から。平行してカルチャースクールスタッフや広告代理店で広告営業なども経験。2017年よりライターのみの活動に絞る。現在は美容やファッションからビジネス関係まで、幅広いジャンルで記事を制作している。張紀中版射雕英雄伝と天竜八部を観て修慶(シウ・キン)のファンになり、修慶迷として武侠ドラマファンの間では知る人ぞ知る存在に。現在は趣味にて小説も執筆中。
※掲載している内容はコラムニスト個人の見解であり、弊社の立場や意見を代表するものではありません。
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