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<インタビュー>「海外市場開拓のプロ」が語る世界と中国の自動車事情―多賀谷秀保・三菱自動車前社長

配信日時:2011年12月16日(金) 6時23分
<インタビュー>「海外市場開拓のプロ」が語る世界と中国の自動車事情―多賀谷秀保・三菱自動車前社長
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日本の自動車産業の海外進出に尽力した多賀谷秀保・三菱自動車工業前社長のモットーは「外に目を向け半歩先を見る」。世界で自動車を販売してきた「海外市場開拓のプロ」に世界とアジア、中国の自動車事情と展望について語ってもらった。
日本の自動車産業の海外進出に尽力した多賀谷秀保・三菱自動車工業前社長のモットーは「外に目を向け半歩先を見る」。世界で自動車を販売してきた「海外市場開拓のプロ」に世界とアジア、中国の自動車事情と展望について語ってもらった。(聞き手/八牧浩行・Record China社長・主筆)

――1970年代後半から90年代にかけ海外進出への推進役として活躍されました。当初は円高、石油ショックなどで環境が悪化、輸出企業は壊滅すると言われましたね。

当時は日本のメーカーはまだ満足に輸出できておらず海外依存度が低かった。面倒で利益が大きくない輸出なんかやめてくれと言うのが工場の本音で、それへの説得が大変だった。僕は欧州駐在と米国駐在を経験していますが、欧州と米国は自動車に対する考え方が違っている。高速性能が重視される欧州では車は「マシン」で性能重視ですが、米国では「おもちゃ」。デザインや内装、飾りが大切で、豪華でまっすぐ走れればいいという考え方でした。米国では日本車は小型車という「隙間」に入ることができましたが、性能重視の欧州ではまともにぶつかりました。当時はまだ欧州車に性能面で一日の長がありました。

―難攻不落の欧州への進出に成功したのですね。

うちの技術屋は欧州に進出した時、自分達の技術力が試してもらえる欧州市場進出をすごく喜び、社内の技術陣に「輸出部門」の存在が歓迎されるようになりました。

――私は1980年から85年までロンドンに駐在しましたが、三菱のギャランやランサ―などはデザイン的にも非常に人気が高かったですね。自動車に限らず日本の産業界がこぞって世界に進出する時代でしたね。欧州はべンツ、フォルクスワーゲン、BMW、ルノーなど有力車が多かったから苦労もあったでしょうね?

僕は75年に本社海外部門、82年から86年にオランダの欧州駐在として欧州輸出を担当しました。欧州への輸出一号車はブランドのマークも名前も決まっていなかった。「コルト」「ミツビシ」などバラバラで、顧客からテレックスで「ブランドはどっちだ」と質問が来たほどだった。欧州は当初儲からなかったが、20年たって何とか利益が出るようになった。やはり欧州での現地メーカーとの競争は厳しかった。一方、米国での事情は少し違っていました。米国の自動車メーカーは全くドメスティックです。

―米国は大いなる田舎ですね。

あんな大きな車を走らす道路は米国以外にはほとんどない。三菱はクライスラーと資本提携していましたが、ク社は輸出実務を知らなかった。米国内の需要が大きかったから、米国メーカーは米国市場だけを相手にしていればよかった。GM、フォードもそうでした。

――TPP(アジア太平洋経済連携)への積極的関与など世界のさらなるグローバル化に米国は関心を持ち始めているようですが。

グローバリゼーションとは響きはいいですが、米国のためにあるようなものですよ。本当のところはアメリカナイゼーションです。

――世界を熟知している人が言うと説得力がありますね。米国は覇権国家の地位を維持したいと考えているようですね。1980年代、日本は製造業も金融も破竹の勢いでした。そのころインタビューしたサッチャー首相は日本的経営とジャパン・パワーに学びたいと言って日産やソニーなどの工場を誘致、地元で地域運動会まで始めました。三菱はパジェロなどユニークなブランド車を作りましたね。

パジェロ発売前に、開発した商品開発課長から直々に「ある程度売れるめどが立たないと発売が認められない。何とか450台ぐらい欧州で売れるめどを付けてくれ」と頼まれました。「こんな車売れない」と多くの幹部から言われたらしい。この方は高校の先輩だったこともあって、僕も頑張りました。売り出したら月に2000台も売れた。パジェロはタキシードを着て似合うオフロード車として人気を博しました。当時のライフスタイルに合致した車でしたが、今でも人気車です。

――米国での部長時代は「団決力」を重視したとか?

何事もモチベーションが大事だと思います。米国は日本よりはるかに上意下達が徹底している。下はまず抵抗しない。しかし部下が自分より年上で、年功序列になれていた自分は始めのうち戸惑ったが、自分は一時の在籍、部下は一生なので部下の出世の手助けをしようと考えました。その結果話し合える人と見られ、団結力が増し、業績も上がりました。

――帰国してからは?

マーケティング戦略室を任されましたが、三菱自動車はマーケッティングが不在だった。パジェロがたまたま当たったが、作れば売れる時代ではなくなってきていた。マーケティングの重要な役割は、売ることもさることながら、ブランド価値を上げることだと思います。

――その後バブルが崩壊し日本経済は大変でしたね。有力な銀行や生保が潰れ、三菱東京、三井住友の合併など金融再編も相次ぎ、「平成恐慌」状態でした。製造業も大変だったですね。

自動車業界も例外ではなかった。合従連衡や生き残り策の時代。社長に呼ばれてどことやるか提案せよと。簡単に結論の出せる問題ではなかったが、結果的にベンツと資本提携し、どのようにやっていくかも任されました。「半歩先を見る」の気持ちを持って対応しました。市場的に観ると、西側諸国に拠点はあったが、ポーランド、チェコ、ハンガリー、ポーランドなど東側にはなかった。米欧以外の地域がこれからの牽引車になると読み、積極的に進出し成功しました。一時167か国を担当していました。

―中国は?

成長の速度が全然違う。将来の自動車生産を視野に入れ、エンジン工場をまず作った。瀋陽とハルビン。向こうの企業と合弁で既に操業していて、僕の時は作ったエンジンをどう活用するかが課題でした。中国でのモータリゼーションの波に乗って年間2万台だった生産があっという間に30万台になった。
今でも30万台以上製造しており、需要は急拡大している。今、中国の2010年の販売台数は1800万台を突破し、2011年も2000万台近く売れる見通しです。ダントツの世界一で日本の4倍以上にも達する。将来は3000万台に達するとの予測もある。中国は、世界で一番自動車メーカーが多い市場で、毎日のように新型車が中国市場で投入されている。

――人口14億人のうち、購買可能な層がどんどん増えていますね。他のアジア諸国の伸びも急激です。

 ASEANも中産階級で伸びています。インドも増えていますが、インフラがついていきません。韓国はヒュンダイがよくなりました。中国人と韓国人は中東でも、アフリカでも、どこ行ってもいて現地に住み着いている。現地に同化しているように見えます。それが彼らの強みだと考えます。

――三菱の事故が起きた後、救世主として社長に就任し、業績もうまくリカバリーさせましたね。電気自動車時代を先取りして「iミーブ」も早くから手掛けましたね。

なんとかやれたと思います。電気自動車の時代が到来しつつあります。

<プロフィール>多賀谷秀保(たがや・ひでやす)
県立静岡高校、東京大学経済学部卒業、1972年三菱自動車工業入社、海外事業部配属、欧州駐在(オランダ・ドイツ)、欧州本部、米州本部、米国駐在(ロスアンゼルス)、商品企画部長、マーケティング戦略室長、国際協業推進室長、執行役員・海外統括本部長などを歴任。2004年代表取締役社長、2005年米国三菱自動車会長、2007年社長アドバイザー就任。64歳。
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