日本からの電話をあれほど喜んでいた母、その時だけは目に涙が浮かんでいた―中国人学生

配信日時:2015年9月20日(日) 19時39分
日本からの電話をあれほど喜んでいた母、その時だけは目に涙が浮かんでいた―中国人学生
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中国人研修生たちにとっては出稼ぎが第一の目的だが、南京大学金陵学院の毛暁霞さんの母親のように日本人と交流を深め、それがまた子どもへと伝わっていくこともあるようだ。資料写真。
中国メディアによると、2008年に日本に15万人以上いた中国人研修生は2014年には10万人ほどに減少した。研修生たちにとっては出稼ぎが第一の目的だが、南京大学金陵学院の毛暁霞さんの母親のように日本人と交流を深め、それがまた子どもへと伝わっていくこともあるようだ。

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私の母は十数年前、日本に行って働いていた。そこは岡山というところだった。母が日本へ行ったのは私がちょうど小学1年生の時だ。母がそばにいない生活はだんだん慣れたとは言え、今思い出すと、さびしくてたまらなかった。ずいぶん昔の事なのに、まだ記憶に新しい。3年後、母が戻ってきた。その時から、私の知識と情報量が大きく広がった。すべて母の日本での特別な経験のおかげだ。

秋の夜に母とソファーに座り、アルバムを取り出した。母は自分と一緒に写真に写っている人を指した。写真から見ると、その人は優しいおばあさんという感じの人。母は日本に行ったばかりの頃、高い食べ物が買えなくて、自分で種を買って野菜を作りたいと思ったそうだ。母は日本語が苦手だったけれど、おばあさんだけは母に話しかけてくれた。また、いつも新鮮な野菜を母にくれた。おばあさんの優しさは母を感動させたそうだ。その後、母は時々おばあさんの家に行って、雑談をするようになり、2人は友達になった。母がおばあさんのことを話す時、ずっと涙を流していたのが私の脳裏に深い印象を残している。その時から、私もこのおばあさんに会いたいと思うようになった。

寒くなって、冬が来た。春節(旧正月)の大晦日の夜、電話のベルがなった。私が電話に出ると、向こう側から全然わからない言葉が聞こえてきた。それはおばあさんだった。母の名前だけわかって、私は母を呼んだ。電話で話している母はうれしそうで、声も普段より高くて、約1時間後、電話が終わった。「さっきの人は写真のおばあさんよ」と母は言った。顔いっぱいに喜びがあふれていた母は、無意識のうちに感動を私に伝えてくれた。以後の数年、おばあさんは毎年、母に新年のお祝いの電話をくれた。毎回電話を受け取る母も楽しそうで、電話が終わるとその喜びに浸って、しばらく何も話さないくらいだった。

ある年の新年、電話が来なかった。母が向こうに電話をかけても、おばあさんは出なかった。その後しばらくして電話が来た。でも、電話が終わった瞬間、私は母の目に涙が流れているのをはっきり見た。それはおばあさんの息子からの、おばあさんが亡くなったという電話だった。

おばあさんは母にとって家族と同じだった。家族に死なれて、母はどんなに悲しかっただろう。おばあさんは母を感動させた人、私も感動させられた。その日、母は一つの日本語の挨拶を私に教えてくれた。「あけまして、おめでとうございます」。それは忘れられない日本語だ。おばあさんは息子に電話をかけて、彼女の代わりに新年のお祝いの言葉を言うように頼んだのだ。それで私は絶対に日本語を勉強しようと決めた。母も賛成してくれた。

今、中国と日本の関係は厳しい状況だ。しかし、両国人民の相互理解を高め、コミュニケーションを強化すれば、両国の関係はきっと大きく改善できると思う。母とおばあさんの付き合いの経験から、国籍に関係なく、誠実に付き合えば、感動することがあるだろう。今、私はおばあさんのことを思い出すたびに、胸の奥が温かくなるような気がする。私は絶対にこの感動を大事にしようと思う。(編集/北田

※本文は、第九回中国人の日本語作文コンクール受賞作品集「中国人の心を動かした『日本力』日本人も知らない感動エピソード」(段躍中編、日本僑報社、2013年)より、毛暁霞さん(南京大学金陵学院)の作品「感動したこと」を編集したものです。文中の表現は基本的に原文のまま記載しています。なお、作文は日本僑報社の許可を得て掲載しています。
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